園子温監督は、豊川市出身。中学の同級生のいとこでした。その同級生の女の子はとってもチャーミングで感受性の強いタイプの女の子。おじいさんのことをグランパって呼んでいた、という記憶があります。園一族は、そのあたりではちょっと知られた存在でした。
大学生の頃、「ぴあ」を隅々まで読んでいた時に、「自転車吐息」という映画で園子温氏が紹介されていて、へー映画監督になったのか、観てみたいなあと(たしかその映画も豊川で撮られていたような)思っていました。そして月日は遠く過ぎ去り今年、「愛のむきだし」が公開されているのを知ってはいたのですが、見逃して残念無念しているところ、続けざまにこの「ちゃんと伝える」。それは主役の話題性で記事になっていたのですが、監督の名前を見てびっくり。そしてロケ地が豊川や豊橋ということで、もうこれは行かねばなりません。
だってタイトルの「ちゃんと伝える」だけで、私には充分響いています。「自転車吐息」というタイトルからずっと、なにかが私のなかで響いているのです。
そしていきなりの冒頭映像は、あの角。何度となく通っているあの角の風景。おきつねさんのはりぼてや昔ながらの看板が壁に張り付いている、もう何年も変わりないのあの街角。それからは、もうあそこもここも状態。それは映画の中のことでなく、現実的なわたしの故郷。ストーリーはあらかじめだいたいわかっていたし、何を監督が描きたいかというコメントも読んでいたし。淡々とストーリーを追い、時に涙し、どうやって「ちゃんと伝える」のかを確認するような思いで、ラストまで。
時間経過をそのまま流さずに、毎日繰り返される日常のひとときを何度も何度も繰り返したり、もう一度もどって同じシーンが入って来たり、大きく時間がもどって過去が映し出されたり、音楽の楽譜みたいに奏でられる。(全く同じシーンを映画の中で繰り返し観たのは初めて。それで、最初に観たのと2回目に観たのと、言葉や表情が全然違うものに感じたのも初めて。素直に、あー映画は監督のものだと思った。)いつもはもっと激しい映画を撮るらしい人の、やっぱりどこか力づくの話の展開もあり、蝉の脱け殻や、鳥の屍骸にカメラが静止して、象徴的な詩人のようなシーンもある。
そういうことすべてが、起承転結的な悲しさや辛さでなく、時間の中に挟まってしまった、ひたひたとした断続的な、ある意味日常的な、人の死の寂しさ、というものを描いていたと思う。わーっと泣いて終わりなのではなく、毎日のなかに死は、生と共に存在している。
落ち着いて考えてみて、そうたどり着きました。
実は、映画を見終わって立ち上がったら、ぐーっとこみあげてくるものがあり、薄暗い映画館のロビーを歩いても、白々と明るいショッピングモールを抜けても(映画館はその施設の最上階)収まらない。ヘルメットをかぶりバイクを走らせて、だーだーとえっえっと涙を流しながら帰る。30分くらい、なんで泣いているのかわからない子供になってしまったように泣いていたのが、どうしてなのか。
あまりにも近すぎて、なにか同化してしまったのかもしれない。すごく気持ちは近しいものだけど、遠くにある、いまここにないもの。離れた故郷は、どこか死に似ているのかもしれない。違う場所が舞台だったらこんなにならなかったよね。でもね、言葉は三河弁じゃなかったの。だからよかった。