rororoのこと

オープンして半年。壁を引き剥がしていたのはまだ暑さの残る初秋、暖を取ることが必要な季節になっていよいよ開店だったのだから、月日は粛々と流れている。
自分たちでつくったものを、展示して販売する。織ったり、染めたり、縫ったりして、衣服をはじめ身の回りのものを製作する。どこかのスペースを借りて展示会をするのでなく、常時店を開けて店主をするのでなく、製作することと店を構えることがなんとかバランスを保てる、月に二日だけ開店という店。いや、店とは呼べないかも知れない。
月に一度、その湿っぽい空気で満たされた古い民家の扉は開け放たれ、新しい空気と新しい作品が運び込まれる。お掃除をして、照明のスイッチが入り、お茶の仕度が始まる。二日間の慣れない接客も、月日を重ね回を重ねる毎に、少しづつ淀みないものになっていく。作ることと売ることは、やっぱりチャンネルを変えないと難しいところもあって、少々の不器用さはご勘弁というところ。
古い民家等を改造し、自分たちのライフスタイルを伝えるような品揃えをして、交通の不便なところにありながらも、人々の共感を得るようなかたちのお店が雑誌等で数々紹介されている。誰がそれをつくり、誰がそれを選び、どこでそれを買うのか。そういうことが明確に表現され、そこにものを買うことの楽しみを見いだす。今日的消費者のひとつの方向だろう。rororoもそういった流れのなかで、訪れた人々にここで自分たちの価値観を提示している店に違いない。でも、彼女たちを見ていて思うのは、それにもましてつくることの面白さこそが、何ものにも代え難いのだということ。自分たちのつくったものがお客さんに喜ばれ、その人の生活の中に寄り添っていくのを見送るのは面映ゆくも嬉しいことなのだけど、作っているときのこう爆発的なもしくは滲み出るような興奮は、もっと根源的なところの歓喜へと繋がるのだ。rororoに並んでいるものが放つ存在感は、そういう彼女たちの満たされた行為の結果が現れている故なのだ。
そういうものづくりから延長した流れでの空間づくりが、このrororoの店なのである。月に一度目を覚ます、古ぼけた家屋に潜むrororoびとに会うのは少々難しいのだけれど、でもここに来ると、彼女たちの喜びの恩恵を少しは頂戴することができるような気もするのだ。

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