ビクトル・エリセ監督の「マルメロの陽光」に出ていたスペインの作家。スペインを代表する現代作家であっても、今まであまり作品を紹介される機会が無く、今回日本初の回顧展。どうしても観ておきたくて、長崎県美術館まで出かける。
身の回りのもの、家族や静物、植物、室内、住む街(マドリード)、をモチーフにして、日常の生活と制作が、そこには混じりあっている。描き続けることと生き続けていることが、凝縮してここに存在している。絵画の力を見せつけられてしまった気分。
ここのところ美術作品には気持ちが乗れず、どっちかというと音楽に心奪われていたのだ。時間と空間を圧倒的に支配する、音楽の存在の仕方に軍配をあげていたのだ。
でも、この絵の前で、作家が過ごした膨大な時間や、眼差しや、筆のタッチや、絵具の存在感を感じるとき、絵画の不動感というか、時間を超える、物としての力を思わざるを得なかった。
夕陽のその色を捉えたり、朝の街の冷ややかな景色を表現するため、その時間にだけ出向いて行きそこで描くことを、何年もやり続ける。昔描いたものに、違う表現を託したくて手を入れ続ける。かと思うと、途中で変更したり、モチーフの変化に連れて、描き換えた箇所が、完成されずそのまま放置されているものもある。
彼は、違う時間軸で生きているのかもしれない。もし、次に回顧展があるとしても、ここにある絵は、ちがうものとして登場するかもしれない。
でも、リアリズムの巨匠であるのは確かだけれども、ちょっと変わっている。マドリードの風景をあんな大きなサイズで描こうということや、室内の絵の大きさだって普通はあのサイズじゃないだろう。
最近は、彫刻、それもパブリックな場所に設置された女性像。高さ5メートルもある女性の半身像のリアリズムも、なんとなく変わってると思ってしまうのはなぜだろう。
ロペスの時間とは、もう会うことはないかもしれない。でもこの時間を、わたしの時間として持ち続けることはできる。
(長崎県美術館の屋上庭園。長崎は今日は夏晴れでした。)