ハロウィーン

と言われても、そこまで季節行事としてお菓子メーカーも力を入れていないので、かぼちゃのおばけぐらいしかイメージが湧かないのであるが、まあ言ってみれば、収穫祭の秋祭りと同じようなもの。
で、思い出したのがこの絵本。
「リバータウン」文/ボニー・ガイサート 絵/アーサー・ガイサート 訳/久美沙織 BL出版
北アメリカの川沿いの、小さな町の一年を描いたもの。
川を荷船が行き来し、列車が走り、人が暮らし、農場がある。その風景が季節ごとに遠景で描かれ、時に、人々の表情がわかるくらいの近景の絵になる。
ページを見比べて、季節が変わると変化するものがあったり、自然災害があったり、岩石の落下事故あったり、教会で結婚式があったりと、小さな町の中で、様々なことが変化しているのがわかります。というか、よおく探すと発見できます。
その中に、ハロウィーンのシーンがでてくるのです。町のメインストリートで人々が楽しんでいる様子が描かれて、冬の前の開放的な夜の空気が伝わります。
これが、ハロウィーンの私のイメージ。

 

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金井美恵子ー西江雅之

金井美恵子氏の(どうあっても呼び捨てにできない心持ち)、エッセイコレクション(1964-2013)1「夜になっても遊びつづけろ」を、めくる。
その語り口、切れ味、切られ素材、何をとっても面白いのだけど、集中して読まないと、どこまでも続いていくような文章は、「ついて来られないようなやつはお引き取り願う」と言っていて、怖いし時々見失うけどなんとかついていきますってかんじの読者なのであるが‥。20代の頃、「文章教室」を読んで以来、もう金井美恵子氏は、私にとって特別席の女親分なのである。
で、この中に西江雅之さん(尊敬と親しみを込めて呼び捨ては無し)についての文章、彼の著書「花のある風景」の書評なのであるが、これが、なんともいいのである。
愛にあふれたというか、甘美な文章。
「‥書物ではなく、生きた人間と出会うことによって与えられた決定的な影響という意味では、私は家族のつぎに西江雅之をあげるだろう。」そして「西江さんから学んだものは、ひと言で言うとすれば、私の気持ちを非常に優しくしてくれる何か、というような言い方しか出来ない。」
もちろん、こういう個人的な気持ちを語っているだけでなく、西江さんがどういう仕事をしていて、どういう人柄なのかは、十分に語られてはいるのだけれど、こんなふうに、あの金井美恵子氏が‥手放しで‥‥。
それでもって、その西江さんは、もうその通りの人であって、私も尊敬と愛情を捧げているわけで、西江さんをそうでしかないような表現で語る優しい感じが、余計に胸に染みたのでありました。

アントニオ・ロペス展

ビクトル・エリセ監督の「マルメロの陽光」に出ていたスペインの作家。スペインを代表する現代作家であっても、今まであまり作品を紹介される機会が無く、今回日本初の回顧展。どうしても観ておきたくて、長崎県美術館まで出かける。
身の回りのもの、家族や静物、植物、室内、住む街(マドリード)、をモチーフにして、日常の生活と制作が、そこには混じりあっている。描き続けることと生き続けていることが、凝縮してここに存在している。絵画の力を見せつけられてしまった気分。
ここのところ美術作品には気持ちが乗れず、どっちかというと音楽に心奪われていたのだ。時間と空間を圧倒的に支配する、音楽の存在の仕方に軍配をあげていたのだ。
でも、この絵の前で、作家が過ごした膨大な時間や、眼差しや、筆のタッチや、絵具の存在感を感じるとき、絵画の不動感というか、時間を超える、物としての力を思わざるを得なかった。
夕陽のその色を捉えたり、朝の街の冷ややかな景色を表現するため、その時間にだけ出向いて行きそこで描くことを、何年もやり続ける。昔描いたものに、違う表現を託したくて手を入れ続ける。かと思うと、途中で変更したり、モチーフの変化に連れて、描き換えた箇所が、完成されずそのまま放置されているものもある。
彼は、違う時間軸で生きているのかもしれない。もし、次に回顧展があるとしても、ここにある絵は、ちがうものとして登場するかもしれない。
でも、リアリズムの巨匠であるのは確かだけれども、ちょっと変わっている。マドリードの風景をあんな大きなサイズで描こうということや、室内の絵の大きさだって普通はあのサイズじゃないだろう。
最近は、彫刻、それもパブリックな場所に設置された女性像。高さ5メートルもある女性の半身像のリアリズムも、なんとなく変わってると思ってしまうのはなぜだろう。
ロペスの時間とは、もう会うことはないかもしれない。でもこの時間を、わたしの時間として持ち続けることはできる。

(長崎県美術館の屋上庭園。長崎は今日は夏晴れでした。)

100万回生きた猫 ミュージカル

今年初っ端のお楽しみ企画だった、100万回生きた猫、観てきました。去年の10月に前売りを買ってのお待ちかね。
演出、振り付け、美術のイスラエル人二人組は期待通り。面白い!舞台の面白さを堪能。とてもオープンな二人は、現場で役者やスタッフたちと共にお芝居をつくりあげていくって解説されていたけど、まさしく、そういう現場でのつくり込み感や、おもしろがり感が、随所にちりばめられていた。あれこれ説明したいけど、説明は面白くないからしません。森山未來くんはすごい身体能力。ずっと出ずっぱりだったし動いていたし、前半もう息もつけないとら猫さんでした。彼は多才で多彩な役者なんだね。銀粉蝶さんもさすがだ。ダンサーたちも魅力的。椅子や机や壁を使ったり、ダンスが表現要素としてすごく能弁でした。歌も歌詞がよく聞こえてきてきれいだったし。ただ、後半しろいねことの、動きがなくなってからの最後のシーン。ちょっともの足らなかった。とりのこされたような時間だった。どうしてなのかと、ずいぶん終わってから考えてしまいました。原作の絵本も読み返して。
どんな世界の誰の猫として生きても、面白くなくて嫌いで、死んでも平気で、自分のために生き、しろいねこと共に幸せに暮らした後に、初めて死を感受する。ほんとうに生きたから、ほんとうに死ねたのか。もう生き返らない猫に安堵感を覚えるような、そういうイメージのおはなしだったんだけど、果たしてそうなのかと。
嫌われても人の愛を受け入れずとも死をなんとも思わなくても、そんな生き方でもいいじゃないか、愛することで何か失っちゃうよりいいじゃないか、死んじゃうことほどせつないものはないじゃないか。佐野洋子さん亡き今は、そんなふうにも思ってしまうのでした。

春のハンギングバスケット

毎年すごくはりきってつくろうと思うわけでもないのに、なぜかつくる機会に恵まれ、ついつい手をくだしてしまうハンギングバスケット。(今回は安売りになっていたパンジーとビオラに手を差し伸べてしまった)
冬の寒さをこらえて、暖かくなるとしっかり成長して目を楽しませてくれる。このスミレ系の花って、洋花の代表だなあとしげしげと見る。