ピアノ教室発表会

2年ほど前に竣工したお施主さんの家。ピアノレッスン室をつくり、奥様がピアノ教室を始められた。新しい住宅地には、幼い子供たちも多く住み、少しづつ生徒さんも増え、今回ははじめてのガーデンピアノ発表会。レッスン室の掃き出し窓を外し、庭に椅子を並べ、いつものレッスン室がちょっとしたステージに様代わり。遮るもの無く、高台の前面に建っているので、見晴らしは最高。ステージに立つと、目の前に山々と遠く町並みが望めるはず。小さな子供たちは、まだ片手だけの可愛い演奏や、どきどきしてつい後ろにいてくれる先生を振り返ったり、とても微笑ましい。最後の女の子は、先生とデュオでディズニーの曲を弾いて嬉しそうにしている。雨あがりの気持ちのよい秋晴れのなか、風に吹かれながらピアノの音を楽しむ。こんなふうに小さな発表会の経験を積みながら、やがて大きなステージに立てるように、という先生の締めくくりの言葉もいいなと思う。こんなすてきなガーデン発表会が、子供たちの記憶のどこかに残っていくのは羨ましい。
ピアノ教室の看板をつくらせてもらったり、庭のデザインや植栽も共にさせてもらったので、わたしもピアノ教室の専属のような気がしているのだ。かわいいピアニストたちが、これから音楽を愛する人生を歩めるといいなと思う。

「ちゃんと伝える」

園子温監督は、豊川市出身。中学の同級生のいとこでした。その同級生の女の子はとってもチャーミングで感受性の強いタイプの女の子。おじいさんのことをグランパって呼んでいた、という記憶があります。園一族は、そのあたりではちょっと知られた存在でした。
大学生の頃、「ぴあ」を隅々まで読んでいた時に、「自転車吐息」という映画で園子温氏が紹介されていて、へー映画監督になったのか、観てみたいなあと(たしかその映画も豊川で撮られていたような)思っていました。そして月日は遠く過ぎ去り今年、「愛のむきだし」が公開されているのを知ってはいたのですが、見逃して残念無念しているところ、続けざまにこの「ちゃんと伝える」。それは主役の話題性で記事になっていたのですが、監督の名前を見てびっくり。そしてロケ地が豊川や豊橋ということで、もうこれは行かねばなりません。
だってタイトルの「ちゃんと伝える」だけで、私には充分響いています。「自転車吐息」というタイトルからずっと、なにかが私のなかで響いているのです。
そしていきなりの冒頭映像は、あの角。何度となく通っているあの角の風景。おきつねさんのはりぼてや昔ながらの看板が壁に張り付いている、もう何年も変わりないのあの街角。それからは、もうあそこもここも状態。それは映画の中のことでなく、現実的なわたしの故郷。ストーリーはあらかじめだいたいわかっていたし、何を監督が描きたいかというコメントも読んでいたし。淡々とストーリーを追い、時に涙し、どうやって「ちゃんと伝える」のかを確認するような思いで、ラストまで。
時間経過をそのまま流さずに、毎日繰り返される日常のひとときを何度も何度も繰り返したり、もう一度もどって同じシーンが入って来たり、大きく時間がもどって過去が映し出されたり、音楽の楽譜みたいに奏でられる。(全く同じシーンを映画の中で繰り返し観たのは初めて。それで、最初に観たのと2回目に観たのと、言葉や表情が全然違うものに感じたのも初めて。素直に、あー映画は監督のものだと思った。)いつもはもっと激しい映画を撮るらしい人の、やっぱりどこか力づくの話の展開もあり、蝉の脱け殻や、鳥の屍骸にカメラが静止して、象徴的な詩人のようなシーンもある。
そういうことすべてが、起承転結的な悲しさや辛さでなく、時間の中に挟まってしまった、ひたひたとした断続的な、ある意味日常的な、人の死の寂しさ、というものを描いていたと思う。わーっと泣いて終わりなのではなく、毎日のなかに死は、生と共に存在している。
落ち着いて考えてみて、そうたどり着きました。
実は、映画を見終わって立ち上がったら、ぐーっとこみあげてくるものがあり、薄暗い映画館のロビーを歩いても、白々と明るいショッピングモールを抜けても(映画館はその施設の最上階)収まらない。ヘルメットをかぶりバイクを走らせて、だーだーとえっえっと涙を流しながら帰る。30分くらい、なんで泣いているのかわからない子供になってしまったように泣いていたのが、どうしてなのか。
あまりにも近すぎて、なにか同化してしまったのかもしれない。すごく気持ちは近しいものだけど、遠くにある、いまここにないもの。離れた故郷は、どこか死に似ているのかもしれない。違う場所が舞台だったらこんなにならなかったよね。でもね、言葉は三河弁じゃなかったの。だからよかった。

最近よかったNHKのTV

・若かりし糸井重里が司会をしていた「YOU」。
清志郎とチャボが出演して、自分たちのライブビデオを見ているというまったりとした企画。ギターを抱えてぽろぽろと音を出しながら、全く気持ちの在処の見えない、素の清志郎がよかった。
・井上陽水のデビュー40周年、4回シリーズ。
陽水、おもしろーい。小学生の頃、傘がないや夢の中へや青空ひとりきりや、歌ってました。テレビなんかに出ないし、レコード買うお金もないし、ラジオ聞いたり、雑誌の歌詞カード見ながら。ここにも出て来た清志郎や、リリーフランキーとの語りも面白かった。やっぱり40年も人気者であり続けるということは、そういう魅力が枯れることなく、こんこんと溢れるようにあり続ける人なのだ。
・あべ一座の「あべ上がりの夜空に」
宮藤官九郎構成、演出の歌謡バラエティショウ。全国から「あべ」さんを一般公募し出演者を選抜。芸能人もすべて「あべ」さん。阿部寛やあべ静江、そしてもちろん阿部サダヲ。いちばん美味しかったのは、NHKアナウンサーの阿部さんでしょう。NHKホール紅白歌合戦の冒頭、客席からアナウンスするあの人。
内容は、「あべ」へのひっかけがこれでもかと続くので、疲れてくるのであるが、さすがクドカン、めげずにそのばかばかしさでひっぱっていく。あそこまでやりきらないと、芸として成立しないのである。舞台は阿部サダヲのものだったけど、フィナーレはなんだか満足度があった。名前が同じなだけで、なんか親近感や愛情がわくし、連帯感が生まれて、平和な空気になるのだ。人間てそういうものだって思う。
・佐野元春のザソングライターズ、ゲスト矢野顕子。
いつも笑って話をけむに巻く矢野さんが、真摯に答えていた。ホームという言葉について。自分の場所、自分の帰るところ、それは家族ということではなく、自分自身なのであり、それこそは矢野顕子の伝えたいことの核心なのだというくだりは、おおと思いましたね。かつて佐野さんと矢野さんの「自転車でおいでよ」にやられたからねえ。嬉しかったです。
・同じく矢野顕子と上原ひろみの、スタジオライブ
上原ひろみ、初めて見ました。かわいいのに、すごいパワー炸裂ってかんじでした。ふたりとも楽しそうで、ミュージシャンの仲良しコンビっていいなあとうらやましい。
・爆笑問題のニッポンの教養、東京藝術大学と坂本龍一の回
爆笑問題の話法というか、つっこみどころはまあさておき、藝大生や藝大の先生たちを垣間見ることができました。教授も、あいかわらず教授だった。藝術について思いを巡らすこと、世の人々はもっとしてもよいのでは。

はるひ美術館

里帰りの途中に名古屋近郊にある「はるひ美術館」に寄る。ひびのこづえの展覧会「キタイギタイ」。舞台の衣装や、雑誌掲載の写真や、彼女の作品を時折見かけては、ファッションデザイナーではなく、コスチューム・アーティストとして活動していることに興味があったし。
未だバブリーな装いの名古屋駅からJRで15分くらい走ると春日町で、のどかな畑が広がり、収穫時に取り残されたかぼちゃやらキューリが道端に転がっていたりする。古い民家の残る小道をこの道でいいのかしらんと歩いていると、この展覧会のためのかわいい絵柄の案内ポスターがそこここに貼ってある。美術館はこちらという矢印。真夏の炎天下、蝉の声を聞きながら人影のない知らない町を歩くこと20分。
小さな美術館に、ぎっしりと「生きもののかたち 服のかたち」が詰まっていた。
いろんなものがすべて、彼女を通ると、なにかしらのコスチュームとなって生まれてくるのだ。展示されていたものは、虫やら動物やらを題材にしたものが多かったのだが、彼女は世の中のすべてのものを、人間のからだにまといつくものとしてのコスチュームとして、創りだすことができるのだと思う。
スケッチ、楽しそうだったもの。イモムシ?イモムシはこうでこうでこうでしょ。カエルの卵?だったらそれはこうなるのよね、って。
作品のあまり布や解体したパーツを、コラージュしたり刺繍したり手芸して、バッグやおさいふやのオリジナルグッズを作って販売するショップもあって、つい嬉しくなってバッグを購入。
こういう細々とつくりこんでいって世界が現われてくるの、好きだなあ。

楽しいアート

知り合いが、鈴峯女子短期大学のオープンカレッジの講師をしていて、春夏講座全5回、参加しました。講座名は「楽しいアート」。スタンプをつくったり、絵本をつくったり、照明器具をつくったり、鳥のおきものをつくったりと、なかなか中身の濃い講座。時間内に完成は難しく、いつも宿題状態でした。日々の生活とは関係のない、ただつくりあげることに熱中する時間は楽しいものでした。
でも。なんだか全然昔と変わってないのよね。表現の技術の進歩が無い。デッサンにしても、画面の構成にしても、なんかなあ、昔と一緒じゃん、って思ってしまった。もちろん、技術的な訓練をしていないからあたりまえのことです。とまったままで当然です。逆に後退しているくらい。
もし、なにか続けて技を磨いていたら、この歳になって少しは納得のいく表現もできていたかもしれないのに。そういう年月を、何もせずに置いてきてしまったと、ちょっと寂しいような気がしました。
なお、秋冬の同講座は、10月から開講されるそうです。