勉強したいのよね、とは歳をとってから思うものなのですが、最近そんな気持ちがふつふつと湧いてきました。それで新年になって、夜のお勉強タイムをつくることにしました。とりあえずの科目は、日本美術史。
仲町啓子氏の「すぐわかる琳派の美術」(仲町啓子監修 東京美術)。そして橋本治「ひらがな日本美術史」(新潮社)。易しいところから復習です。仲町さんは、大学時代にお見かけしていたので、図書館の本棚でこれを見つけ、つい親近感が湧いて手にとってしまいました。「ひらがな美術史」は、芸術新潮に連載されていてもしっかり読んだことがなく、一度は全巻読んでみたいなと思っていたもの。
看板描き
インプレイス広報担当として、フレンドリーな看板をつくりました。どんなんがフレンドリーなのか悩むところなのですが、こんなんはいかがでしょうか。
そうめんの入っていた空箱にアクリル絵の具でペイントしました。
手書の文字がいいというKの意見を聞き流し、得意のレタリング適当風。ぴっちりと線を描かずに、ゆらいでしまうのを味として自画自賛する。はみ出したり、むらになるのを、そこが印刷にない魅力なのよと容認する、ゆるい技法です。
文字をこんなふうに描くのは昔から好きだったので、時間を忘れて作業していました。看板屋にもちょっとなりたかったな。なんて思いながら。
遠くからだとわからないしね。でも近づいてみると、私の手のゆるさがわかります。
こどもケンチク夏期学校
子供向けの建築講座を、この夏開催しました。第1回は、建築に関する話をいろいろ。建築の歴史や、世界にはどんな建築があるのか、今新しいものはどんな建築か。実習としては、自分でつくるとしたらどんなものが作れるのか考えたり、今住んでいる家の間取りを書いてみたりもしました。やっぱり自分で表現させると面白い。どんなふうに物事を観察しているのか、頭の中がどんな回路で反応しているのか、なんとなく見えてきたりします。こどもと一緒になにかやるこれは醍醐味だな。
「ねたあとに」朝日新聞
長嶋有&高野文子という、夢の饗宴。この組み合わせで新聞小説という、すごい朝日新聞のすごさに狂喜乱舞したのは8ヶ月前。毎日しっかり目を通し、はさみでちょきちょき切り抜き、もう永遠にこのままずっと「ねたあとに」が続いていくような。そういう希望を胸に、まさしくねたあとにいつもいつもこの長嶋有&高野文子ワールドに慣れ親しんでいたのが、いよいよおしまいとなりました。寂しいことです。切り抜いた新聞小説をひとつに綴じて、私もサインしてもらいたい。(そういう人がいたと、どこかで長嶋氏が書いていた)でも実を言うと、一日分、117回分だけ、切り抜くのを忘れて資源ゴミに出してしまった。資源ゴミの木曜日は気を付けなくちゃと思っていたのに。悔やまれて悔やまれて、もうその一回分があるかないかで途端に全部の価値がなくなっちゃう、もうやめようかしら、と深く落ち込んだのである。が、気を取り直して、その日以外の切り抜いた日々にはちゃんと価値があるわけだし、と大人っぽく気を取り直して、その一枚以外はちゃんと日々切り抜き通したのである。
「やみくも」鴻巣友希子 筑摩書房
翻訳を仕事にしている人なのだが、どこかで短文をちらっと読んで名前を覚えていた。
「やみくも」センスいいよなあ。言葉を選ぶのって、センスが出るものね。読んでいてくすっとするようなことがあったり、「くー、うまいっ」って感じるところがあったりして、楽しかったあ。「本の中で忘れがたい文章に出会うと、不粋を承知で付箋を貼らずにはいられなくなる性癖がある。」というのを真似て、そうか、この本付箋を付けて読んでみようと挑戦してみた。で、貼った箇所を手帳に書き写したりして(本返さなきゃならないしね)、さてはがした付箋をどうするか。貧乏性なせいでなんだかぱっと捨てられなく、また束に重ねて貼ったりして。収まりの悪い付箋の束。だから付箋はいつも好んで使えないのだ。やっぱり私には習慣にはなりそうにないな。
そしてまた、これも挿し絵がいいのである。(絵・さげさかのりこ)コンテか鉛筆かで描かれたスケッチ風のモノクロの犬やら景色やらが文中に挟まってくるのだが、挟まり方がいいのである。装幀の仕事かなこれは。