小風さちさんの幼児向け絵本、わにわにくんのシリーズ「わにわにのおふろ」と、「とべ!ちいさいプロペラき」がうちにある。両方とも、Tが小さい頃購入したもの。
両方ともページをめくって読み聞かせているのが、いつも気持ちのよい本だった。シンプルな内容なのに、言葉の選び方やリズムがよくて、声に出して読んでいると気持ちが伸びやかになってくる。気分がのってくる。絵を描いている人は違うのに(山口マオと山本忠敬)、それぞれの作風にもとっても合っていて、それも不思議に思っていた。
この本もいつか読みたいと思っていた本。こういう長編も書くんだ。
時間をめぐるちょっとしたファンタジーなのだったが、落ち着いた空気が終始流れていて、やっぱりそれは言葉のせいだろうか。仕立屋の住むゆびぬき小路や、舞台になっているまちが、頭の中にしっかりとイメージできたし、着心地のよいコートに腕を通すような感覚も一緒に体験できたし。それで、やっぱり挿し絵(画・小野かおる)の雰囲気がとっても合っていた。
今度は短編の身辺雑記のようなお話も、読んでみたいなあ。
日曜日の夜のボヘミアン
うちのお風呂は2階にあり、道路側に面している。もちろん道行く人には、お風呂の存在は全くわからないのであるが、こちらからは通りすがりのひとたちの気配がわかる。音は上にあがってくるので、小さな窓から足音や自転車の音や話し声なんかも聞こえてくる。
日曜日の夜、ゆっくりと湯船につかっていると、「ボヘミアーーン」という声が聞こえてきた。ぼそぼそと歌っている。そしてまた「ボヘミアーーン」。結構じょうず。いちばん大きな「ボヘミアーーン」が聞こえて、やがて声は遠のいていく。
実は歌声の聞こえてくるのはこれが初めてではない。いつも違う音楽なので、同じ人かどうかも不明。
ほろ酔い気分で歌いながら、我が家へ向かう人がいる道筋っていいよねえ。(勝手にそう思っている)なんだか気持ちがほぐれる。みんな、歌をうたいながらおうちに帰ろう。
(うちの息子は風呂に入って気持ちよくなって、ついつい歌を歌っているわけであるが、きっと外の人に聞かれているとは思っていない、と思う。あの歌い方は。)
つくるよろこび
今年小学6年生をやっている一人息子は、手がよく動く方だと思う。小さいときから、どちらかというと屈託なく外へ飛び出していく鉄砲玉のような子供というかんじではなく、そのかわりにひとりの世界でなにかもくもくとやっているという時間が多かったせいかもしれない。今でも、本の世界に浸っていたり、レゴで何か仮想世界で遊んでいたり、工作物を作っていたりする時間も多い。
その工作物であるが、彼にとっての自由自在の素材は、紙とテープ。なんでも、この紙とテープでつくろうとする。幼い手では、のりしろをつくりのりで貼り付けるのは難易度が高い。お手軽にセロテープでつなぎ合わせていたそのままの手法でやっている。しゃーぴっしゃーぴっというテープを切る音とともに、様々な物が作り出される。
様々なものを作り出していく中で、継続して好きなのは刀をつくること。親はおもちゃの刀を与えてくれないので、自分でつくるしかない。新聞紙をまるめただけでは物足らず、なにか張り付けたり、巻き付けたり、いろいろ技を駆使して、彼は新しい刀をどんどん生み出した。
そしていよいよ、それを納める「さや」までも登場。これはもとはティッシュの空き箱。それに刀と同様ビニールテープを巻き付けて、ぴったりと、刀が実にぴったりと納まるようにつくった。きつすぎずゆるすぎない微妙な納まり具合になっている。仕上がりがちょっとなあ、テープだしなあ、という些細なところに彼の創作欲はとらわれないのだ。
つくりたいものをつくりたいようにつくってなんぼ。あーうらやましい。
柚木沙弥郎展
くっきりとしたものが好きなのだと思う。それは一本の線というよりも、何かと何かの境界。せめぎ合うところ。染めた色のくっきりとせめぎ合いつつ、でも揺らいでもいるところ。
布というのはただの平面ではなく、そこに描かれていたり彩色されていても、紙の上の時とはあきらかに違う様子になる。平面から立ち上がって立体的になる手前のところ。そのあたりの世界がどうも好き。
単純なかたちや、ひとつのパターンの繰り返しで、洗練されたイメージをつくる。見たことないけど、見たことあるような、懐かしくて嬉しいような。
「夜の絵本」の原画というか、実物布絵が言葉と一緒に展示されていた。あーこれが柚木さんの詩情なのだとしばし立ちつくす。研ぎ澄まされた世界だった。
というわけで、写真でしか見たことのない柚木沙弥郎氏の展覧会がわりと近場で開催されて、大変ラッキー。早速行って来ました。
岡山県立美術館と、丸善シンフォニービル店のギャラリーの2箇所(こちらはすでに終了)
近くには岡山城と後楽園もあって、時間が無かったので岡山城だけ見学。狭い範囲での岡山散策でしたが、同じ瀬戸内でも広島とは雰囲気が違う。こう押さえが効いているというか。ラテンじゃないというか。
展覧会は6月29日まで。
家と庭
設計の仕事を終え、無事に建物が立ち上がり、施主家族の生活が始まる。そこにいつも安堵感と共に、一抹の寂しさのようなものも感じるのは、設計の仕事に携わるものの常だと思う。あれこれと関わっていたものを、もうよそに手渡してしまったかんじ。もちろん、その家は最初から施主のものであり、設計側の所有物ではないのであるが、それはそれ、生み出したものへの愛着というのは、そう簡単には無くならない。でも、もうそこには一つの家族の濃密な生活が詰まっていくのであって、我々は時々そこにお邪魔させてもらうくらいのこと。たまに近くまで行けば、その家の前の道をわざわざ通ってみたり。何か問題箇所があったりして連絡があれば、久しぶりにお邪魔できるとほくそ笑んでみたり。
あまり問題がありすぎて、度々お邪魔するのはもっと問題だけど、設計の仕事が終わった後も、何かしら関係をもっていきたいと、遠慮がちに背中で語る設計者なのである。
それで、このK邸。
ここの庭づくりは、デザインも施工も植え込みも、インプレイスが中心になって、施主家族も交えて行った。その流れで、壁面にハンギングバスケットをつり下げているのであるが、これを年に2回(夏から秋用、冬から春用)継続して作らせてもらっている。つまり、この約束によって定期的にお邪魔できるのはとっても嬉しいことなのである。庭の方も時間がたってとてもいい感じになっている。家と庭は、やっぱりセットだと思うし、両方に関わることができてこれまた嬉しいのである。