「目をすます」押江千衣子

押江千衣子「目をすます」求龍堂 広島県立図書館
思わず目を見張る。かなりアンテナに引っかかっていた作家。残念なことに実物はまだ観たことがないのだ。うー観たい。欲求は高まるばかりだ。植物、風景、ヌード、いずれもモチーフとそれをとりまく空気感がていねいに描かれていて、とても好き。大きいサイズで描いているのもいい。ヨーロッパの車窓よりシリーズは、これよこれまさしく、と心の中で叫ぶ。

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rororoのこと

オープンして半年。壁を引き剥がしていたのはまだ暑さの残る初秋、暖を取ることが必要な季節になっていよいよ開店だったのだから、月日は粛々と流れている。
自分たちでつくったものを、展示して販売する。織ったり、染めたり、縫ったりして、衣服をはじめ身の回りのものを製作する。どこかのスペースを借りて展示会をするのでなく、常時店を開けて店主をするのでなく、製作することと店を構えることがなんとかバランスを保てる、月に二日だけ開店という店。いや、店とは呼べないかも知れない。
月に一度、その湿っぽい空気で満たされた古い民家の扉は開け放たれ、新しい空気と新しい作品が運び込まれる。お掃除をして、照明のスイッチが入り、お茶の仕度が始まる。二日間の慣れない接客も、月日を重ね回を重ねる毎に、少しづつ淀みないものになっていく。作ることと売ることは、やっぱりチャンネルを変えないと難しいところもあって、少々の不器用さはご勘弁というところ。
古い民家等を改造し、自分たちのライフスタイルを伝えるような品揃えをして、交通の不便なところにありながらも、人々の共感を得るようなかたちのお店が雑誌等で数々紹介されている。誰がそれをつくり、誰がそれを選び、どこでそれを買うのか。そういうことが明確に表現され、そこにものを買うことの楽しみを見いだす。今日的消費者のひとつの方向だろう。rororoもそういった流れのなかで、訪れた人々にここで自分たちの価値観を提示している店に違いない。でも、彼女たちを見ていて思うのは、それにもましてつくることの面白さこそが、何ものにも代え難いのだということ。自分たちのつくったものがお客さんに喜ばれ、その人の生活の中に寄り添っていくのを見送るのは面映ゆくも嬉しいことなのだけど、作っているときのこう爆発的なもしくは滲み出るような興奮は、もっと根源的なところの歓喜へと繋がるのだ。rororoに並んでいるものが放つ存在感は、そういう彼女たちの満たされた行為の結果が現れている故なのだ。
そういうものづくりから延長した流れでの空間づくりが、このrororoの店なのである。月に一度目を覚ます、古ぼけた家屋に潜むrororoびとに会うのは少々難しいのだけれど、でもここに来ると、彼女たちの喜びの恩恵を少しは頂戴することができるような気もするのだ。

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「天の鹿」

「天の鹿」安房直子 広島県立図書館
子供を育てることは、もう一度子供時代を生きる楽しみがあるという話をどこかで聞いたが、まさしくそれを感じるのは、本を読むことに関して。子供と一緒になって絵本をさんざん楽しみ、字が読めるようになり、長い文章が読めるようになった頃には、児童文学をもちろん手に取る。ファンタジーものや岩波世界児童文学全集などをすすめる親の指向をよそに、歴史ものや忍者や豆知識ものが好きなのは仕方ないこととして、それでも一緒に読む本を選び、親としてというより一読者としてあーだこーだ言い合うのは楽しいこと。
もう何年も前に、福音館の母の友(だったと思う)に連載されているのを読みかけて、忘れられない話があった。挿絵の雰囲気やちょっと古風な言い回し、場面設定の幻想的な感じが忘れられなくて、いつかその前後を読みたいなとその時に思った。で、図書館でふと、探してみようと思ったのだけど、作者名ももちろん題名すらわからない。無理だよなと思いながら、それでもわけもなく背表紙を頼りに何冊か手に取っているうち、ああこれじゃないか。まさしくおとぎ話的に私の手元にやってきたのであるが、それがこの「天の鹿」。私のかつて読んだ箇所は、清十さんがある鹿に連れられて鹿の市へ行き、そこで紫水晶の首飾りを買ったところだった。清十さんには3人の娘がいて、彼女たちと鹿のものがたりが繰り広げられる。美しいものがたくさん散りばめられ、多くは語らないけど、人間や自然や、欲望や愛や、生や死や、かすかに漂っているものが心に触れてくる。最後のの鹿と末娘のやりとりは胸にせまり、手を放されるように終わる。挿絵は、鈴木康司。これも相乗効果。筑摩書房刊。(初版は1979年。復刊ドットコムで復刊されています)

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「河岸忘日抄」堀江敏幸

ずいぶん時間をかけて読み終える。忘れないうちにその臨場感にひたったまま、がーと短時間で読み終えるような内容ではなかったので、安心して、本を閉じたり開いたりを繰り返した。電車に乗って、少し読み、顔を上げて窓からの景色を眺める。そしてまた本に戻る。活字と風景を行ったり来たりするのがとても心地よかった。
いつも頭の中は、何かをつらつら考え、また別のことをつらつら考え、いろんなことを思い出したり忘れたりしながら、焦点をいろんなものに合わせていく。そういう途切れながらも繋がっていく感じが、書かれている文章の流れと共鳴して、読後感よりも読中感に満足。それにしてもこの作家、この何年かでいろんな賞を取りまくっていたのね。最初はなんだっけーと思い起こして、トーベ・ヤンソン特集のユリイカに載っていた「のぼりとのスナフキン」を読み直す。賞を取るような力の入ったのもいいけど、こういう軽いタッチの、いいよなあとにんまりする。

堀江

発疹

ここ二日、お天気が良くて上機嫌で園芸バイトに行ってきた。ところが腕と顔が痒くなる。一昨年は、5月のGW、ベトナムのフルーツと陽射しにやられての発疹だったけど、今回の原因は日中の園芸仕事かしらと、皮膚科に行って診てもらう。土や植物をさんざん触ったからかなあ、せっかく園芸仕事に喜びを見いだしているのに、水を差された気分だと意気消沈。理路整然とした顔つきの賢そうな女医さんはまたしても、いくつかの質問をしてふんふんと私の答えにうなずき、「今年は日照不足だし、陽射しに慣れていないところに急激に浴びたためでしょう。もし植物の汁や肥料等の刺激だったら、手の部分にも発疹がでているはず。」確かに、腕まくりして陽にさらされていたところと、帽子をかぶっても防ぎにくい顔の下部が痒いのだ。手には何もでていない。「手は、ずっと外に出しているから大丈夫なんですよ。」前回の「外国のフルーツを食べませんでしたか?」に引き続き、見事な推理だった。いや、医療においては推理とは言わないけど、適切な診断と処置。まだ痒いけど、気持ち的にはなんだかすっきり。でも紫外線にやられてしまう自分の皮膚については、納得がいかない。日に焼けて真っ黒になっていた青春時代は、もはや遠いのか。