こんなところに咲いているカラー。
線路と道路の間の溝で、水がたまっている、人目につかないところ。ふと覗き込んだら、ガマなどが生えている中、白い場違いな花が咲いていた。どうしてこんなところにやってきたのだろう。掃き溜めに鶴、のようなその姿。ここを通るたびに見守っている。
こんなところに咲いているカラー。
線路と道路の間の溝で、水がたまっている、人目につかないところ。ふと覗き込んだら、ガマなどが生えている中、白い場違いな花が咲いていた。どうしてこんなところにやってきたのだろう。掃き溜めに鶴、のようなその姿。ここを通るたびに見守っている。
この家が建って、引っ越して、本を並べて、その後は適当な掃除しかしてなかったわけで、10年あまり奥の方には埃が眠っていたのである。
階段の片側の壁がすべて本棚になっている。1階から3階まで。階段というのは人の行き来が多いので、意外と埃も立ちゴミもたまる。月日を追うごとに乱雑に詰め込まれていく本を、整理して掃除する時間と労力を考えると、もうそこは見ないで通り過ぎる。わかってはいるけれど後回しにされる。でもずっと気になるのである。そこにどんな本があるのかだんだん記憶も薄れていく。
そしていよいよそのときがやってきた。掃除決行。
本の処分を一緒にやると選別だけで頭痛がするので、とりあえず今回は本を取り出して掃除して、並べ替えたりして、背表紙を全部見せる作業。この本棚、長方形の棚枠内に筋交いの鉄筋が斜めに突き刺さっている。まともに本を並べることは不可能で、ところどころで、縦にしたり横にしたり、文庫サイズしか入らなかったり、工夫が必要なのである。いかに多くの本の背表紙を並べられるか、腕の見せどころなのである。
それはなかなかに面白かったけど、やっぱり時間はかかった。本も埃まみれで痛んでいたし、反省。
でもきれいになった本棚を眺めるのは、たいへんたいへん嬉しい。
モランディ展。東京ステーションギャラリーにて。
安心した気持ちで鑑賞できる展覧会。激しい色彩や、モチーフの斬新さや、これ見よがしな表現形式がないから?
机の上で、瓶や缶の向きを変えたりくっつけたり離したり。窓の板戸を開けたり閉めたり光を調節して。キャンバスの上で、描いたり消したり構成を考えながら。毎日毎日描き続ける。
そういう時間を追体験するように、同じような絵の前を歩いて行く。
妹が掃除をしようとすると、埃をはらうなという話。
映画界の人々が特に彼を慕い、アトリエを訪ね作品を購入した話。
アトリエ内にもの(作品に関するものだけでなく)をためこんで捨てられなかった話。
静かに仕事をさせてくれ、と言っていた話。
とっても内に籠っている人物像を彷彿とさせる逸話ばかりである。
でも生涯、描き続けられる世界を自分のアトリエに見いだし、その場所と時間とを濃密に生きたことを羨ましく思うのは、私だけではないと思う。
晩年のもう抽象になってしまった、ぼやぼやの作品を見て、ああ幸せな人生だ、と思ってしまった。
それにしても、埃がつもるとどのように物体の光の反射が変わるのか、拭き掃除をストップしてみたりしている。
全国津々浦々に桜の木は存在し、お花見のシーズンには華々しくクローズアップされる。暖かくなった季節に心も身体もほぐれ、満開になった桜色の景色に満足する。
誰にでもひとつやふたつ、桜が咲くことを楽しみにしている場所があるのではないだろうか。わたしの桜はここ。実家の近くにあるので、毎年のように見られるわけではないのであるが、里帰りとタイミングよく合えば、花見散歩に出掛ける場所。小さな川沿いの両脇に桜の木が植えられ、近年は菜の花も咲き、まさに春色の響宴。橋の上から見ると、これが永遠に続くかのよう。
若かりし頃、人生に挫けそうになったりすると、早朝にこの土手を走ったよな。
このあたりは桜木通りとか小桜町とか桜の馬場とか、桜の文字と縁のある名前が多く、私の母校も桜木小学校。桜が確かに多くあるような。ちょっと自慢。