西瀬戸内紀行その4

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夜中も小雨が降ってたけど、朝日がちゃんと出てました。
この日も5時半起きで出発。といってもどこも開いてないので、朝食を買って海が綺麗に見えるところを探す。
サイクリングセンターが開いてたので、そこでマップを入手。とりあえず国東の山を目指して登る事にした。
先ずは弥生時代の集落を再現してるという事で、ゲートの外から観察。(まだ開いてないので)
瀬戸内に面する浜から1kmほど内陸部で、稲作に適した開けた土地。
陸路は険しい山越えになるので、船でここまで来たのだろう。
茅葺きの竪穴式住居は、柱で持ち上げると今でも見かける農家とすごく近い。
夏の過ごしやすさと衛生面の改良を行ったという事だろう。
稲の人工栽培は、もともと雲南省の沼地ではじまった技術。沼なので、高床じゃないと生活する床面が確保できない。
それで、稲作の農業技術と高床の建築技術はセットであちこちに伝わったようです。
稲作は連作障害も起こらないし、カロリー対労働が大きいので、稲作可能な気候(梅雨が必要)と水(人口の沼をつくるので)さえあればどこでもできる。人類の生み出した農作物でも一番成功してると思う。
その象徴が高床建築なので、祀りや稲の保存に使われてるのだろう。しかしバリアフリー社会ということで、床の段差が悪役化されてる。稲も取れすぎて悪役。少し寂しいが次に向かう。

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とりあえず山頂付近の両子寺に到着。
いきなり墓地の看板。真新しい仏像や、拝観順路の強制。少し辛い気持ちになったけど気を取り直して古い建物や仏像を探す。
ここ国東半島は、八幡神の総本山宇佐神宮の社領だったので、八幡神とは何か?を考えるには丁度いい。
清和源氏の守り神で、国防の神様。東大寺の大仏の言い出しっぺで、銅による鋳造の技術も、半島や大陸への強いパイプもあり、仏教も神道も混合していながら、山伏系が強い。当然鉱山開発も関係してるだろう。
恐らく新羅系の渡来神でしょうね。韓国の慶尚北道に残る石の技術(大仏や石塔)にも近いものがあります。
そのうち調べてみたいと思います。

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文殊仙寺を見た後、富貴寺に到着。
浄土様式の建築で、ほんとに綺麗です。端正でシンプル、プロポーションも良くて、安定感と軽快さを兼ね備えてる。
全盛期の槙文彦という感じ。内部の色は失われてますが、もともとは朱に塗られていたようです。
宇佐神宮の宮司のためのものでしょうか。

さらに南に下がると真木大堂があります。ここの庭には、国東のあちこちから集められた石の塔や碑が集められています。
本堂にはかなり激しい仏像があります。その当時の仏教と人の距離感や役割のようなものが透けて見えてきます。

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次の熊野磨崖仏は、国東の仏教遺跡では最後になりました。
不動明王は古いようで、荒々しい表現ながらユーモラスな表情になっています。
大日如来は安定感と親しみにくさを感じさせるものです。こうした岩の崖面に彫る仏像は、やはり韓国でも見ました。
元々はガンダーラのギリシャ人の技術だと思うのですが、そうした先端技術の多くがこの半島に根付いているというのも、豊後地方の地勢的な重要性を物語っていると思います。

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なんの計画もなく大きな半島に入って、移動してたので、行動の無駄がやたら多かったですが、思ったより緩やかな山並みが続く土地は、漁業だけでなく、農業や林業でも栄えただろうとは思います。
翌日帰るつもりだったので、竹田津に近い半島の先のキャンプ場にテントを張りました。
それから前から気になっていた料理屋に魚を食べに。しばらく漁には出てないという事だったので無難に。
暗くなるまで、浜に降りて本を読んでると、向いにある姫島の山頂だけに白い雲がかかってるんです。
翌日は、キツネの格好で子供が踊る事で有名な姫島の盆踊りがあります。
家では植物が水を欲しがってるだろうなと思ってなんども躊躇したのですが、あの雲には何かあるんだろうと思う事にして一日延長することにしました。

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