昨日、NHKで纒向遺跡の発掘の番組をやっていました。
邪馬台国は九州か?奈良か?
昔から熱のこもった論争があります。
その当時、その前後に、卑弥呼や邪馬台国だけが特別だったわけではなくて、たまたま魏の歴史書に記述が残ってるというだけの話ですが、卑弥呼が女性というところが、歴史好きのおじさんたちのロマンをかきたててるのでしょうか?
邪馬台国であろうとなかろうと、纒向は非常に面白いんです。
支配的な文化を持つ文明は、影響下の地域に対して文化や経済、軍事等様々な影響力を行使しますが、文明と呼ぶには、影響を与える建築様式があることが前提となってるようです。
英国が世界を影響下に置いてたときは、煉瓦造の建築が作られましたし、戦後アメリカが支配的であるところでは、コンクリートのモダンデザインの建築が作られました。
纒向は日本で最初の日本を統一する政権で、複数の地域の領主たちが集まってつくった政権のようです。
この時に、同時に前方後円墳も創造され、その後日本全土や朝鮮半島南部にまで広がっていきます。
そしてある時期にぴたっとつくられなくなる。
日本が倭と呼ばれていた時期の首都だったというところです。
全国様々な地方の土器が出土することから連合国家と言われています。
東海系の土器は、数は一番多いけど庶民向けの土器らしくて、都市建設の労働者と言われています。
祭祀に使うものは吉備系だったので、数は少ないけど吉備系は重要な役割を占めていたと言われます。
トップは出雲系だったとか。東海を除けば一番多いのも北陸山陰系です。
関東系 :5%
東海系 :49%
近江系 :5%
北陸・山陰系 :17%
河内系 :10%
紀伊系 :1%
吉備系 :7%
播磨系 :3%
西部瀬戸内海系 :3%
ここでわかるのが、九州がないということ。
つまり、九州北部と対立する勢力が、瀬戸内海と日本海で連合し、瀬戸内海と東海をつなぐ中間地点である奈良盆地の南に首都をつくったという説が有力です。
実際、前方後円墳があることろが纒向を作り、前方後円墳が少ないところと対立していたという感じじゃないかと思えます。
弥生時代の有力なクニがあった佐賀〜福岡の一支国や伊都国、末盧国、奴国あたりには前方後円墳はなく、それを取り囲む形で西側に前方後円墳があります。
魏志倭人伝では、魏から邪馬台国に行くために通過するのは、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国など。いずれも纒向には参加してないし前方後円墳もない。
もしも纒向に行きたければ、出雲〜敦賀〜琵琶湖〜奈良というルートを通ると思う。
当時は鉄の輸入ルートを巡って激しい勢力争いをしてて、外国との交易ルートや国内の流通ルート(瀬戸内海、下関、琵琶湖など)も争いのかなり重要なポイントでした。
ヤマダ電機とエディオン連合という感じでしょうか。
だから、纒向は違うかな?というのが現時点での想像(妄想)です。
昨日の番組では、祭祀を行っていたと思われる主だった建築の横の穴から桃の種が2000個以上出てきた。もちろん海のものや山のものも。
桃といえば道教。
道教といえば黄巾の乱。
黄巾の乱の残党が卑弥呼の先祖という説もありますから、祭祀の痕跡からすると、なんらかの道教の影響が濃いということは事実のようです。そちらの線で行くと、纒向が有力ということになります。
黄巾の乱の残党は江南地方から海づたいに日本に来たと言う説もあり、魏志倭人伝の頃は奄美のあたりにいたという説もある。距離的にはぴったりです。
そうなってくると、どっちでもないということで、論争もすっきりと収まると思うのですが。