僕が育った町出身で唯一の大きな仕事をしたひとの話です。
吉村さんが取材に来た時に対応した郷土史家は中学校で歴史を教えてくれた佐原先生でした。
安芸国川尻浦の久蔵は、幼く父を亡くして佛通寺など禅寺三ヶ寺で修行をします。
母に仕送りをするために灘の米を江戸に運ぶ樽廻船の水夫となるが、潮岬沖で遭難。
三ヶ月以上漂流し、カムチャッカ半島まで流される。
江戸時代の船は幕府によって規制されていたこともあって、構造的な欠陥を抱えていたために、荒天となると重要な部分が壊れて漂流することが相次いだようです。特に避難港が少ない海域では特に。瀬戸内海は5海里ごとになんらかの避難できる港がありますが、太平洋側の遠州灘や日本海側などは神に祈るしかない海域も多くありました。
マストが一本に規制されたことから、一枚の大きな帆となって安定は悪く、風上に登りにくくなります。そのため舵を大きくして、その水中抵抗で向かい風の時に風上にのぼる構造となりますが、その結果、海が荒れたときに舵への水圧が大きくなって壊れるケースが相次いでいます。
漂流中、酒は最後までふんだんにあったようですが、水や米の不足には苦しめられたようです。
海での漂流中は死者はいなかったのですが、雪に覆われたカムチャッカ半島では最初から凍死する人が相次いで、久蔵も凍傷となって後に足の先を切断する手術をします。
久蔵は、寺で学んだ事が役立って、ロシア語を習得し、簡単な辞書や漂流の記録に加えて、天然痘予防の牛痘接種の技術を身につけます。これも足の手術をした医師との信頼関係もあって、治療の手伝いをする中で得たものでした。
高田屋嘉兵衛が漂流してきて、その流れ(ゴローニン事件)で帰国。漂着から3年半後。
そのときに、漂流の記録「魯西亜国漂流聞書」やざまざまな物品に加えて、日本で最初の天然痘の種痘苗やその道具を持ち帰り、広島藩に提出するが、事なかれ主義の役人に鼻で笑われて倉庫行き。
その後、川尻でも天然痘の流行があって、多くの被害が出ていますので、大変残念に思ったと思います。
長崎の蘭学医達が輸入して鍋島の若様に接種する数十年前の事でした。
日本ではこうした江戸時代の漂流文学が多く描かれていますから、時期も重なっているものもあってまとめて読むとよいです。
中川五郎治「北天の星」吉村昭
高田屋嘉兵衛 「菜の花の沖」司馬遼太郎