「伊賀越え 光秀はなぜ家康を討ち漏らしたのか」小林正信

あるとき書店で手に取って、面白そうだと思って、このお盆に読んでみました。
徳川家康一行が、本能寺の変の直後に、堺から三河にかなりの速度で帰っていったという、神君伊賀越えは同行者の証言もほぼなく、謎につつまれた事件となっています。
間接的な証言や日記、関わったとされる人への感謝状などから、多くの説が乱立する状況。
実際に通過したルートだけでなく、一番重要な本能寺の黒幕まで含めると、永久に諸説乱立が続くと思われていました。

「伊賀越え 光秀はなぜ家康を討ち漏らしたのか」は、本能寺の変の前後の正親町天皇の政権構想や、織田信長の政権構想との対立やギャップを長く研究された方によるもの。
すなわち、正親町天皇がつくりあげようとした政権構想に反した武将を次々と葬っていった。その一人が織田信長であり、それを実行する役割でありながら、最終的な勝利者に葬られる役割だったのが明智光秀、政権構想に完全に乗って天下人になるのが羽柴秀吉であったというストーリーです。
それは、天皇と関白の密接な政権によって政権運営をするという構想で、伊賀越えで討ち漏らした徳川家康によって完全に崩壊させられるという皮肉な結末を迎えます。

伊賀越えに関しては、重要な指摘がありました。松平家忠日記に、安土に向かった250人のうち50人が帰ってきたとよめる記述。
つまり、200人を失う戦闘があったということ。
そして大和の筒井順慶の微妙な立場、長岡(細川)藤孝や前田玄以など関係する人たちの役割など、緻密な調査と分析によって、多くの関係者の動向も興味深い。

点と点を結んで大きなストーリーを紡ぎ出しているが、これをひっくり返すだけのものに出会ったことがない。これが正解で十分と思えます。もしも興味があるなら是非おすすめします。
だた、、、点と点をむすんだお話が全て誰かの思惑に沿ったものだったのか?というところは怪しいと思います。連絡に数日かかり、多くの関係者が一箇所で打ち合わせをする機会も乏しい。想定外のハプニングもずいぶんあったと思います。