高雄の建築

高雄は、都市の再開発や現代建築の建設、歴史的な建築の保存、観光施設の積極的な開発など、勢いを感じる都市です。市長もやり手のようで、市内に等身大のパネルや巨大ポスターなどを時々見ました。どうやら総統選挙の国民党予備選に出るようです。わからないなりにテレビを観てると、どうやら奥さんが美人で社交的で人気があるようです。

高雄の地下鉄が交差する中心の駅が美麗島駅。ここはフランス人作家のステンドグラスが人気で、ピアノの生演奏やイベントもあります。地上出入り口の設計は高松伸。
その北側には日治時代に建設された台鉄高雄駅が移築されています。新高雄駅は線路ごと地下に作っています。
西子湾から沿岸を通る市電(LRT)は、充電式車両なので、架線がなく自転車専用道路も整備されているので、エコで気持ちいい空間になっています。
高雄85ビルは台湾で二番目に高い建築ですが、好感を持たれることは意識していない印象。

その裏手には、高雄市立図書館総館があります。
とても魅力的な図書館ですが、どこかで見たことのある建築です。
劉培森建築事務所と竹中工務店の設計施工ということなので、せんだいメディアテークの施工にも竹中工務店が関わっていたので、似たということなのでしょう。

伊東豊雄さんは高雄国家体育場の設計で、高い評価を得てその後台湾で建築をつくっていくきっかけになっています。この建物は、伊東事務所、劉培森建築師事務所、竹中工務店の組み合わせだったようです。
RCとスチールパイプの巧みな組み合わせで、見事な造形をつくっているスタジアムでした。

高雄 社宅群

高雄市の北の湾には旧日本軍の軍港を台湾が海軍基地として活用しています。その後背地に、軍人向けの社宅の地区が広がっていて、興味深い建築、統治時代の社宅などがあります。

果貿地区にある果貿社區という集合住宅群は、円形の建物が若干人気のようで、面白そうなので自転車で観に行ってみました。しかし、その集合住宅の周辺に広がっている様々な商店やバザール、市場がびっくりするような賑わいで、活き活きとした住宅地となっていました。朝食の有名店もあり、日本人観光客もちらほら。

果貿地区から再び自転車に乗って北上すると、高雄の有名観光地である蓮池潭があります。そこを通過して海に向かうと、戸建て社宅が広がる地区になります。

その一部の社宅四棟が改修され、再見捌捌陸-臺灣眷村文化園區として公開されているので、立ち寄ってみました。開館は1日2回1時間ずつ。日本語のできるスタッフがいました。
周辺は庭付き一戸建ての老朽化した住宅が延々と広がっていますが、改修中のものが2~3戸あります。ここは、住みながら残すということがコンセプトのようで、ここに住みたい人も募集してるようでした。

日治時代のものは、和室続き間、縁側、洋室、水まわりという構成。
ただし、ここの展示のコンセプトは、かつて塀で囲まれた軍の閉鎖的な住宅地の懐かしく、独特な生活を残すというもの。日本式の住宅でありながら、スタッフは日本が作った住宅だとは知らないようでした。

高雄 塩埕区

台湾総督府は、台湾の鉄道や主要港湾の整備を行っていき、高雄は貿易港として急成長していきました。
市の中心は塩埕区に移り、1938年には現在は高雄市立歴史博物館として活用されている旧高雄市役所が建設されます。南国らしい空間を感じるペパーミントグリーンが美しい建築です。
塩埕区の旧高雄駅は引込線が残された公園となり、煉瓦造の倉庫群がアートをテーマにした施設、駁二藝術特區大義倉庫群として観光客で賑わうエリアになっています。旗津に渡る港につながるエリアなので、旗津に渡るための門前町という位置づけでしょう。
翌日の早朝に、自転車でひと回りしたが、それでちょうど良かった。
建築の学生の設計展のポスターがあったが、日程が合わず残念。

高雄 西子灣

もともと打狗という小さな街が天津条約で西洋諸国に開港され、良港の基礎となりました。ペリー来航の9年後のこと。その30年後には下関条約で日本領になって、本格的な港湾都市の開発が始まります。高雄となったのもこのとき。
西子灣にその当初の高雄の古い街の一角が残っていて、保存、再生の活動が行われていました。
当時材木商だった旧佐々木商店の倉庫に「打狗文史再興会社」で、高雄の当時の展示があって、ボランティアが説明が説明してくれました。
その隣が、当時は料亭だった「書店喫茶・一二三亭」。いい感じで活用しています。