パイワン族の村 三地門郷

霧台からバスに乗って、中腹にある三地門で下車。
ここは、日本統治時代に3つの村を合併した人工的に区画された集落です。
長い吊橋もかかってる川の平地側には、台湾原住民文化園区があります。
集落には土産物屋で売るための伝統的な服や小物をつくる工房や、とんぼ玉をつくる工房、ダンスが見れるスタジオ、飲食店などがあります。
観光バスも来るようなので、大きな駐車場のあるレストランもありますし、資料館もありました。
霧台から降りてくると、賑やかな町にやってきたという感じがします。

資料館や、おばさん二人がやってる工房を覗いてみたり、とんぼ玉の工房を覗いてみたりしましたが、お昼なので空振りという感じ。
定休日の看板があった蜻蜓雅築珠芸工作室を覗いてみると、オーナーの施秀菊さんが手招きしてくれたので入ってみました。
パイワン族の商品がいろいろある中で、ここのもののデザインが一番洗練されているようです。
台湾でヒットした恒春が舞台の「海角七号 君想う、国境の南」という映画でも、ここのとんぼ玉ジュエリーが使われたとのこと。

そこから下ると、山川琉璃吊橋があります。三地門郷から台湾原住民族文化園区を隔てる川に、全長約260m、高さ約45mの吊橋をかけています。
景色もよく、風がきもちよかった。

台湾原住民族文化園区

台湾原住民族文化園区は、台湾の16原住民族の資料展示や建築、ダンスが見れる広い観光施設です。
原住民族の地区に入れない時期は、こうした観光施設で観光用の芸能を見せるという状況が続いたと思いますが、近年は文化的な扱いも変わってきてるようです。テレビでも、原住民族チャンネルもあって、音楽やドキュメンタリーもやってました。
平日のせいか、1日2回のダンス公演は観客は4組くらい。各民族の住宅を移築しているエリアもありますが、かなり傷んでて。いろいろギャップのある施設のようです。

ルカイ族の村 霧台

霧台に向かうバスは、一日3往復。7:45,9:30,14:30発。帰りは9:45,11:30,16:30。小さな村なので、7:45発に乗って、11:30発で三地門村で降りることにする。
バスの中で入山名簿に記入。名前とパスポートNo.
乗客は4人。みんな日本人でした。

平地最後の三地門のバスターミナルでトイレ休憩があって、そこから急峻な山に入っていきます。高知県の四国山地のような雰囲気。
土砂崩れ多数。川はほぼ枯れてる状況ですが、豪雨で荒れ狂った痕跡はあります。
途中、小さな集落を通過しながら、高原の小集落霧台に到着。

公共の広場に面して集会所、小学校、資料館があります。
資料館では、装飾品、様々な祝祭の道具などが見れます。イノシシの牙などを使った頭巾や、衣装が美しい。
麓の広いエリアに住むパイワン族から別れた民族のようで、木彫や衣装の形に共通電が多数あります。
どちらも元首狩り族です。
ポリネシア地方の首狩り族は有名ですが、台湾がルーツとのこと。台湾→フィリピン→ポリネシア全域へと広がっていったようです。
日本も150年前までは首刈りの風習があったので、その共通点は興味あるところです。解雇することを首を切ると表現しますし。

建築は、薄いスレート状の石を積み重ねて壁とし、その壁から壁に木製の梁を架て、垂木を転がして、石を屋根葺材として積み重ねるというもの。屋内は地面のままだったようです。
平地のアミ族など海洋民族は、高床式の住宅だったようなので、あきらかに別の様式です。

世襲制の貴族制度があるようです。もちろん、現在は民族衣装を着て生活してる人はいないので、見た目ではわかりませんでした。
ルカイ族は誇り高き戦士という感じ。

屏東市

次に目指すのは、原住民族の住む山奥の集落ですが、許可書なく入山できるようになったのは、最近のことです。が、バスが一日に数往復しかしていないので、朝一のバスに乗るために、ターミナル近くのホテルに前泊。
日本語の上手なおばあさんのいるホテルとしてある意味有名なので、帰りに呼び止められて、ヤシのフレッシュジュースをごちそうになって、しばし日本語でお話できました。

日本統治時代の建物をリノベしてるカフェや本屋さんがあるので、自転車を借りて1kmほど中心部に向かって走る。それらしき古い建物を改修してたので、このあたりかと思ってぐるぐる回るが、改修中の建物だらけ。
調べてみると、目的地の途中。
目的地に向かって走り始めても、改修中の日治時代の建物の改修現場だらけ。
とりあえず本屋さんに行くが定休日。
しかし、関心は改修現場へ。

この大量の改修工事は何?どんな内容の工事?建材は?構造は?
気になったので、現場に入って大工さんに身振り手振りで、ちょっと観ていいか?と聞くと、いろいろ喋ってくれたが、当然お互い理解できず。
こっちへ、、、と言われて、そのままついていくと、監理事務所に。
そこで英語のできるチーフらしき人物(名前は聞きそびれた)が、一通り案内してくれることになった。気遣いに感謝。

1920年代から30年代にかけて建設された軍の官舎が、142棟存在している。庭付き一戸建てですべて平家。将校向けの高級住宅街だった感じです。そのうち71戸を3期に分けて復元工事をしているとのこと。
工事費は1戸あたり2600万~4500万円程度。
屏東市金持ちだね~というと、国の文化部門が8割出してくれるとのこと。
これといって建築的な価値が乏しい社宅を大量に復元するというのは、かなり不思議な感覚です。
日本でも昭和初期から戦後、高度成長期、もちろん現在でも大量に建設される社宅はあると思いますが、数十億かけて復元するというケースは聞いたことないです。なんの躊躇もなく壊されていると思います。建築的価値があるものですら、当たり前のように壊されているので。

確かに、台北や台南に行ったときでも、日治時代の公共建築や工場や社宅などをリノベーションして、文化創造園区にするケースがあり、台湾では流行ってると言っていいと思いますが。

活用の目処を聞いてみましたが、現在の勝利星村創意生活園区と同じようなカフェや書店、資料館なのではないか?という話なので、特別な目的が有る訳ではなさそう。
一期工事は今年12月竣工、全て完成するのは2~3年後のようですから、ぜひ再び屏東市に行ってその後の展開を是非見てみたいと思います。

枋寮

恒春半島から屏東に向かう途中、枋寮でバスから列車に乗り換えました。
枋寮はかつては鉄道の執着駅として有名な土地で、今もここから南の恒春半島、東の台東方面の中継地点として今でも機能しています。
恒春半島も屏東市も、ここ枋寮も屏東県という広い県のなかに位置しています。
屏東県は、昔から主にパイワン族の居住しているエリアで、町を行き交う人や、店の店員、様々な職員などは、マレーポリネシア系の顔立ちの人がすごく多かったです。テレビを観たりすると、画面に映ってるのは、外省人と思われる北京語をしゃべる漢族が中心で、原住民的顔立ちの役者やタレントはほとんど観ることがない。不思議な違和感です。

四重渓から車城でバスを乗り換えて、枋寮に行ったのですが、バス停で待ってると白タク風の若者から乗らないかと持ちかけられる。白タクの相場は、Uberの6掛けくらい。Uberの手数料を引いた金額より少し安めか。

この地方は、幹線道路からも鉄道からも、開けた田園地帯が広がっています。が、川はすべて干上がってる。豪雨のときだけ流れているのだろう。雨季と乾季がはっきり別れている熱帯の気候のせいでしょう。
水面が延々と広がっていましたが、日本向けのうなぎの養殖池のようです。簡単な池に水車で水をかき回すだけの簡単な設備です。とても水を入れ替えるようには見えない。
樹木が林立しているエリアは檳榔。これも延々と広がっています。
実際、檳榔中毒の人はやたら多く、街の道路は赤い跡や、繊維質の果実のカスが道路にはたくさん転がっていますし、バスの運転手や商店のおじさんおばさんは、一日中噛んでる感じ。歯茎は後退し、歯がスカスカになってるのに。

枋寮につくと、先ず漁港に向かう。シラスのオムレツが美味しいとのことだったのですが、見当たらず。漁港でいくつか買って日陰で食べる。
このあたりの漁船は、曲げたパイプのようなものを束ねて船体を作り、その上にすのこを置いてデッキにしている形態のものが多い。とくに枋寮は海保の船以外はすべてパイプ船でした。
材質が気になったので、造船所を覗いてみましたが、どうやら専用の塩ビ管。
古い絵葉書を観ると、昔は竹で作ってたようですから、竹を塩ビ管に置き換えただけのシンプルな構造。これは、コストだけの問題ではなく、サンゴ礁などがあって、座礁の可能性があるエリアなので、沈没の可能性の少ない船型としているのかも。

漁港でマンゴーも売っていたので、カットしてもらって一つ食べる。10元(37円)
駅に向かう途中、台湾版食べログのようなアプリで、かき氷屋を探す。
港伯豆花でマンゴーかき氷を食べた。マンゴーのアイスクリームを削ってかき氷にした上に、マンゴーの大きな塊を全面に載せてるもの。台湾でのマンゴーかき氷の定番と言えるものですが、生涯で一番美味しいかき氷でした。90元(340円)
このあたりは、マンゴーの産地でもあるので、安い上に美味しかった。豆系のものも美味しそうだったが、お腹いっぱいでチャレンジできず。