四重渓温泉

台湾の温泉もちょっと体験してみたい・・・と思って、台湾四大温泉地の四重渓に行きました。
恒春からバスで数十分という位置。
日本統治時代の温泉旅館が今でも営業しています。
四重渓温泉清泉 日式温泉館
台湾が日本領になってすぐ日本人憲兵の高橋さんが発見して、2年後には開業した山口旅館が、戦後清泉旅社となって今に至っています。開業から122年。
高松宮殿下新婚旅行で宿泊した部屋が保存されています。
日式ということですが、台湾式と半々といったことでしょうか。

宿泊棟は、池のある中庭を囲む回廊からアプローチする形式です。
大浴場は露天風呂のみ。水着着用で、加温かけ流し。スイミングキャップはフロントで借りることができます。
アルカリ性炭酸泉で、あっという間に足の裏まですべすべになりました。
夕方に一回、翌朝早くから一回入浴。鄙びた温泉地なので、特に混雑することもなく、入浴できました。

街にはここ以外の温泉宿が一ヶ所、公共浴場が一ヶ所、工事中の温泉公園、そして小さな通りが一本。羊料理が名物の食堂があります。

恒春半島

たまたま検索したら、高雄行きのLCCのチケットが取れたので、長期の連休は8日ほど台湾南部に行ってきました。

今回のテーマは、台湾最南端、山岳地帯に住む原住民族、高雄の現代建築を観ることなど。

南部の恒春半島あたりは、海に面する絶景と都市部から離れた環境条件から、マリンリゾートとして特異な雰囲気です。かつては陸路も十分でなかったようで、北中部の平野の都市とは隔絶されたような土地。
玉ねぎの産地で、ちょうど出荷時期のタイミングで、レストランでも玉ねぎが美味しかった。炒め物にいりこを使っていたり。味付けが薄味で、素材の味を活かしたものばかりで。

恒春

清の時代に作られた城壁の残る恒春は、台湾の地方の集落の雰囲気があり、リノベカフェや、独立書店もあって、コンパクトないい地方都市でした。
空港からのバスから降りて、先ず水餃子。そして散策。城壁や城門で町を囲み、常に賑わいが絶えないいい雰囲気です。清朝最後の城郭都市。
恒春は、明治初期に日本との軍事衝突があったために作られた城です。首狩族であるパイワン族に、宮古の漂流漁師が捕獲され、大量殺害されたこと(宮古島島民遭難事件,牡丹社事件)がきっかけだったようです。それがきっかけで、外交交渉となり、台湾の領有が清、琉球が日本との合意につながったようですから、東アジア史的には非常に大きな出来事だったわけです。白洲正子さんのおじいさんがこのとき活躍し、後に初代台湾総督になっています。

南湾

ビーチに面する南湾という集落の宿に移動。このあたりは、大正時代に日本の捕鯨の拠点があった場所でした。4月でも気温は30度超えてるので、海水浴は可能。
ただし、シーズンではないので、どこもオフな感じ。飲食店も少なく、朝食屋もない。繁盛してるのは、西洋人の客が常にいるピザ屋と、ボサノバという名前の西洋料理の店。今回はパス。アジアにいる西洋人は、西洋人向けの店にしか行かない説。

日本で例えると、、、ミニ沖縄、ミニ宮崎といった感じのエリアなので、水族館が観光の核になっています。国立海洋生物博物館は大きなジュゴンと、たくさんのペンギン、巨大な昆布が目玉です。行政が整備する観光施設は、子供の教育に力点を置いているようで好感が持てます。
ダイビング屋さんもたくさんあるので、サンゴ礁の海に直接潜ったほうが楽しいかもしれない。

バスは整備されていますが、何かと不便なので、スクーターのレンタルで廻るのが基本のようです。日本と台湾は国際免許の条約が違うので、何かと面倒。なので、無免許で乗れる電動スクーター二人乗りで移動しました。取り外し式のバッテリーを2台設置し、空になればケーブルをつなぎ替えるという仕組み。
24時間で800元(3,000円程度)でした。最高速度は30km/h程度、上り坂では10km/h。自転車と同じ扱い。

鵝鑾鼻半島

鵝鑾鼻(がらんぴ)という名前は、太川さんと蛭子さんが路線バスを乗り継ぐ番組で連呼してるのが耳に残っていたので、気になっていました。番組では時間内に到着できなかったのですが。
宿から鵝鑾鼻までは13kmくらいで、途中に立ち寄りながらの電動バイク初体験でした。車とはスピードが違いすぎるので、自転車専用レーンがないと怖い。
湾岸の眺めは素晴らしい。
南はバシー海峡で、フィリピンまで250km程度。台湾の北から沖縄本島までよりも近いです。もちろん目視はできません。民族的にも台湾原住民族とフィリピンはつながりがありますし、この二国の近さは予想外でした。
戦前も、アメリカがフィリピンを侵略したのも、中国への足がかりでしたし、日本も台湾をてこに東南アジアへの進出を図りました。その先にある南シナ海では緊張感が。。。
かつての日本最南端の地という事も含めて、いろいろ勉強になります。

阿波踊りヨットレース

知人から以前から誘われていた阿波踊りヨットレースに、今年始めてクルーとして参加できました。
以前予定していたときは、レースそのものが中止になったり、仕事が忙しくて盆休みがなかったり、、、
噂に聞く楽しいレースとのことなので、すごく楽しみでした。
タモリに早稲田でヨットを教えた方が始めたレースで今回で46回目になります。

往きは同窓会とかぶったので、バスで現地に。
前夜祭、レース、広島に回航という4日の旅です。

徳島まではバスで一日二便、4時間。
県庁の前の川が、ケンチョピアと呼ばれる伝説の係留地になっていて、大会事務局も、ゲストの係留もそこになっています。
駅から歩いて県庁まで行く途中、阿波踊りが始まって二日目のせいか、夜のためにひっそりと息を潜めてる街の空気を感じます。

前夜祭では、野外で立食の後、奴連さんの踊りと、翌日のための練習がありました。
はじめての阿波踊りなので、かなり興奮気味。
その後、市役所前演舞場に観に行きました。
世間ではいろいろニュースになっていた総踊りは、この日の夜にあったようですね。
当日券をコンビニで買っていったのですが、自由席のみ。指定席には空席がありました。このあたりも改善の余地はあると思います。

レース当日は、暑く、適度に風が吹くコンディション。
60艇ほどの中で、最もレースに向いていない高級クルージング艇なので、制限時間までに完走することが目標。
ウミガメを見たり、下りでかなり吹いてパニクったりとかなりドラマはありましたが、なんとか完走。
そこでオーナーは帰っていったので、クルー仲間と阿波踊りに。

ヨット連という連で参加するようなので、ハッピを着て演舞場に行き、嬉し恥ずかしの初阿波踊り。
まさに、踊る阿呆そのもの。
いやー楽しい。

翌朝、3時半に真っ暗なケンチョピア発。
昨日の午後の風の状況から、この日も吹くことは予想してたけど、徳島港を出て紀伊水道に出て、猛烈な波、風、うねりに遭遇。台風が四国沖を通過したときの南風とそれが引き起こした波なのだろう。
鳴門の潮が止まる6時15分に通過することから逆算してるので、南から押されるように、2〜3mの波にもみくちゃにされて2時間。
落水すると見つからないだろうし、すくい上げることもできないだろうから、とにかく落水をしないように、雨の中をしがみついて見張り。
引き返しても、近くの漁港に入っても、いいことにはならないという判断で、予定通り鳴門を通過。
鳴門を超えると、水面は突然穏やかになり、なじみのある瀬戸内の景色に戻ってきた。

その後、弓削島で一泊し、母港である江田島沖ノ島に無事寄港。
20時間の船旅でした。

災害ボランティアについて

日本では、チャリティとボランティアが混乱して認識されているようです。
清らかな慈善活動という意味合いをもつチャリティは、キリスト教を背景とするもので、成果よりも行う人の精神性が重要視されます。
有閑夫人がバザーをする。みたいな。
ボランティアは、義勇兵を語源とするもので、自主性が必須の条件。自己責任能力のある人が、自発的に活動に参加することを意味します。

日本の自然災害では、行政が行う復旧工事は、原則道路や河川、橋梁など公共構造物が主。
被災した個人の家や宅地の復旧は、一義的には被災者本人がやるべきものとなっています。
災害ボランティアは、被災者本人の復旧を手伝うことが基本的な活動となります。

被災者の援助依頼と、ボランティアの支援を仲立ちするのが、ボランティアセンターですが、自治体や社会福祉協議会が主として行っています。
ここは、仲介するのが仕事なので、そこで何をするのか?は、行ったボランティアのグループが、依頼者の要望を元に作業を行うことになります。

災害ボランティアには、チャリティ的なイメージはほとんどなくて、変な慈善心で取り組む人は、ほとんどいないと思っていいでしょう。いても数十人に一人という感じ。
当たり前のように集まって、当たり前のように作業し、終われば帰っていくという、仕事をするために集まった極めて士気の高い集団という感じです。

いつ、どこで、どんな自然災害がおこるかわからない時代です。
毎年のように異常気象による自然災害も起こっています。
自然災害で被害にあった人を支える仕組みが、地元で機能するかどうかが、その後の復旧、復興の結果に直結するとおもいます。
ボランティアは、特別な慈善心の強い人がやること・・・という誤った認識が、この仕組の普及を拒む一番の障壁だと思います。