平成30年7月豪雨災害

九州から中四国地方に長く降った豪雨による最規模な災害からもうすぐ1ヶ月になります。
亡くなられた方や家族、家屋に大きな損害を受けた方々には、心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。

今回の災害は、4年前の安佐南区を襲った災害と同じく、住宅地を広範囲に、突然土砂や濁流が襲うというものでした。
地形や周辺環境、土木構造物等によって被災の状況は違いますが、ありふれた日常の風景が、突然猛威を奮って人や家を襲うということにショックを受けています。

被災後、災害ボランティアの募集を始めたのが7月14日。応募が定員を大きく下回っているとのことだったので、その翌日に安芸区災害ボランティアセンターに行って、活動に参加することにしました。
あまりにも被害が大きく、あまりにも要求される人力での作業力が膨大であるため、それに背を向けることもできず、その後の週末は被災地に通って復旧のお手伝いをすることにしています。

建築や住宅を作り、街や住環境を作り出すことを長くしてきたものとしては、自然の猛威に打ちのめされた街の状態を見届けたい。そこの復旧に向かう後押しをしたいとの強い思いがあります。
できるだけ沢山の地域の状況を知り、沢山の場所の復旧の手伝いをしたいと思って、参加する地域を毎回変えています。
最初の2日は安芸区VC、翌週の2日は坂町VC、その翌週の台風の前日は坂町小屋浦VCです。

災害ボランティアの仕組みは、被災した方が、ボランティアセンターにニーズを伝え、ボランティアセンターはその仲介/紹介をするというもの。
ボランティアは自発性が最大の特徴なので、自己責任能力の確かな人が集まっているようです。士気も高く、リスペクトできる仲間と作業できています。
ただし、効率よく労働力の配分ができているか?については地域差があると思います。
基本的には自治会が、そのエリアのニーズを集約し、担当を振り分けるのですが、進捗状況や優先順位を細かく把握して、エリアを面として復旧に務める自治会もありましたが、それは特殊で奇跡的な例で、ほとんどは高齢の自治会役員が順番に割り当ててる感じ。
復旧の格差がすでに始まっているので、マネージメントの能力によって、復旧の速度や内容に差が出てくることと思われます。
そもそも個人の宅地については、第三者がタッチできるところではないので、本人は当然ですが、当たったボランティアのマネージメント能力も大きな影響を与えることと思います。
僕も、いつかは被災することになるかもしれないので、自身や自治会のあり方については、考えることは多々あります。

住宅が深刻な被害に遭って、再生するかどうか迷っている人も多いです。
小さな住宅の新築費用の半分で改修できれば幸運と思われる住宅もあります。すでに構造的な危険性をはらんでいる住宅もあります。
空き屋だった住宅もあります。
お互いの信頼関係ができてくると、相談されたり、こちらからアドバイスをしたりということも多々あります。
再生に必要な見積を取るタイミングではないし、保険や義援金、支援金など様々な支援もはっきりしているわけではない状況ですから、自己負担もはっきりしない。
そうした中で、再生のイメージが掴めるように、その日の作業だけでなく、その後の流れのアドバイスも有効になります。
たった一日、一緒に汗を流すだけなので、何もわかりませんが、わからないなりに、長く暮らした住宅や、そこで行われてきた家族との生活。人生。それをリスペクトし、少なくとも再生可能な道筋がイメージできることの手助けになっているなら幸いに思っています。

吹屋

週末に、備中地方を廻ってきました。
まず行ったのが弁柄で有名な吹屋地区。
朝早くて人のいない町並みが驚くほどきれいでした。

建築や焼物などの塗料に使われる弁柄や、銅の算出、加工、流通で栄えた街です。明治初期には倉敷と並ぶ繁栄をしていたようで、市になるのが倉敷が先か、吹屋が先かと言われていたようです。
日本は資源がない国だと教わってきましたが、埋蔵量と生産性の問題ではないかと思います。
金も銀もかつては大量に出ましたし、輸入しなくてはならなかった鉄も、砂鉄を利用した国産化にも成功。
4つのプレートがぶつかる地震国なので、地下深くの鉱物が採掘可能だったということでしょう。

  

  

  

  

 

二里の松原:唐津

唐津の虹の松原に行ったとき、近くでレンタル自転車を借りれたので、自転車で松原を走ってみました。
もともと二里の松原と言われていたようで、徒歩で2時間の距離なので端から端まで8km。
結構な松原でした。松原というよりも松林。シートン動物記に出てきそうな。
散歩している人が数人。自転車は僕たちだけ。
途中のからつバーガーは、ライダーや車でかなり賑わっていましたが。
整備もほどほどなのがよかった。

北西の終端へ

平戸島と生月島を結ぶ橋からの日の出でスタートした。
生月島は、平戸島の先にある陸からつながる最北西端の島。その最北西端の灯台を目指す。
南から到達する海流がこの角を曲がって日本海に向かう場所です。
ちょうど、突風が吹く天気だったために、海も白波が立っています。この海を風に向かって走るのはかなりしんどい。怖い。そんな海ですね。遣唐使船は途中で沈むことを前提に、複数の船で出発したようですが、その気持ちわかります。
生月島の厳しい自然に晒されている島の西側をそのまま保存してくれています。
集落は風を避けるように、平戸島との海峡に向かっていくつかあります。

平戸島では、最南端の宮之浦に向かいました。
この港は、本州から陸路で行ける最西端の土地。最西端の港。そこの小さな丘の木立の中に、小さな神社がありました。
エビスさんを祀っていました。
豊かで厳しい海と対峙する漁師の安全を守ってきた風格があります。

平戸の城下町に入ると、目の前には非常に穏やかで、風や潮の影響も少ない湾が広がっています。
海難も珍しくない地域では、恵みの港だと思います。
が、元寇では対馬、壱岐の次に襲われたようですし、その後の倭寇ではかなり活躍もしたようです。
海で生きていく厳しさも味わってきた土地なのでしょう。