今回のW杯

様々なサプライズがあった今回のW杯でした。
前回王者を含む世界4大リーグのうちの3ヶ国がリーグ敗退。
ベスト4は常連組となりましたが、トーナメントで負けた国の善戦。
開催国が主力一人が負傷すると、驚くほど激しく敗退。
欠点のないドイツ、守備が堅いアルゼンチンが最後争うが、順当にドイツが優勝を飾るという流れ。

得点が多く入った大会でしたが、キーパーの活躍も目立ちました。
華麗なるパスサッカーが時代の主流と日本は考えていましたが、世界はその先に行ってた。
激しく強く固い守備と早い攻撃。それに加えたパスサッカーがこれからの主流になるということでしょう。
優勝できなかったドイツでしたが、FCバルサの監督だったペップがバイエルンの監督になったことで、一つ新しい武器を手に入れ、今回の栄冠につながったということでしょう。
昨年からのバルサの不調と、バイエルンの好調さが、この大会にはっきりと反映されたと思いますがいかがでしょうか?
日本代表は、守備を諦めて、パスサッカー一本で大会に望みましたが、チーム自体が先に崩れてサッカーどころじゃない感じで敗退しましたが、もし万全の体制で望んだとしても、どこまで太刀打ち出来たか疑問でした。

明日からJリーグ。
広島も前監督の時代は、3失点しても5得点すればいいというサッカーでしたが、現監督に変わって守備の堅さと早い攻撃を身につけました。
Jリーグをより激しく魅力あるものにすることが、最大の強化だというのは改めて思います。
海外でプレーしていても、出場機会やコンディション、連携の面で果たしてあてに出来るのか?
やはり国内の選手がベースをつくらないと同じ事の繰り返しだと思います。
4年間の新しい期待と課題を感じた決勝戦でした。

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現実と向き合う辛さ

2014年W杯。
あの2008年のように辛い思い出となるとは思っても見なかった人は多いと思います。
目の前にあるのは辛いけど現実。
自分たちが思っている以上に世界は広く、世界の頂点は高かった。

途中悪い予感が数多がよぎることは何度もあったと思います。
攻守のバランスの悪さ。
試合に流れを作ることができない一本調子の攻撃偏重。
軽い複数失点。
現実を前提としない過剰な自信。

アメリカと戦争した山本五十六の戦いっぷりを思いおこさせるような軽くてナイーブな日本が出てしまった3試合だったと思います。
選手や監督、スタッフ、協会だけでなく、評論家やメディア、ファン・サポーターも含めて一色に染まった楽観主義の悲劇から立ち直ることができるのか?
もちろん継続すべきことも多い。
全力が発揮できていれば結果は違う事になったのかもしれない。
しかし、選手の個の能力は上げることは出来ても、重要な場面でそれを発揮させることの出来ない総合的な力をつけることは簡単ではないだろう。
少なくとも今はその方法が思いつかない。

激しい競争を繰り広げている世界の舞台で輝くために。
もちろんひとつの球技だけでなく、様々な分野で勝ち抜くための覚悟が日本に突きつけられたと思っています。

海賊大将軍 藤原純友の根拠地

今年のGWは、知人のヨットに乗せてもらって愛媛県南部の日振島までクルージングしてきました。
日振島は、日本の海賊大将軍 藤原純友の根拠地だった島。
当時とされている古い井戸と戦前に山下喜三郎が建立した記念碑が観光資源として存在していました。
人口は300人強、小学校の児童は13人とのこと。
黒潮の香りのする穏やかな島でした。

出航したハーバーから約150km、片道12時間の航海でした。
もしも公共交通機関を使っていたら、宇和島まで5.5時間、そこから1日3便の高速船で1h。朝6時に出発したら到着は16時過ぎ。
そういう距離の島です。
出港は22時。周防大島と本州を結ぶ大畠の潮のタイミングと、佐田岬の潮のタイミングを見計らって航海計画を立てましたが、ほぼ計画通り。
日の出を迎えたのは周防灘。島に到着したのは10時過ぎ。快適で気持ちのいい航海になりました。

海賊が最初に活発化したのは9世紀後半。純友の乱の100年前です。
寺社による大規模な塩田開発がおこって、海浜に住む住人が追い払われ遊民化したこと。内海の海上交通網が整備されたこと、四国北岸に影響力のあった大友氏、紀氏が政争に負け衰退することによって、四国北岸が物騒になったことなどが背景にあるとされます。
次の活発化は、大陸や半島で唐や新羅、渤海などが滅亡し、次の派遣を巡って日本にも外交使節が頻繁に訪れる時期と重なります。
その西瀬戸内海を征伐にやってきた藤原純友は、部下たちと一緒に海賊を率いて海賊大将軍となるわけです。
今でこそ映画やアニメでありそうなストーリーですが、それが現実であったというのは改めて興味深いです。
特に藤原純友は、摂関体制を確立した藤原忠平の親戚ですから、何かウラがあったのかも?とも思わせます。
東で独立国を目指した平清盛も同じく藤原忠平と近い距離にあったそうで、何がどうなってんだかよくわからない政治状況です。
藤原純友を説得して仲間となった海賊は、この豊後水道の海賊たち。佐伯や宇和島の海洋民たちだったのでしょう。
純友の記念碑をつくった山下汽船の宇和島出身山下亀三郎も、感じるものがあったのでしょう。この山下汽船で大暴れしたのが石原慎太郎のお父さん潔。彼もこの地方出身です。石原慎太郎の海賊っぷり、裕次郎の愛嬌は、この南予地方譲りかもしれません。ちなみに慎太郎の母は宮島の土産物屋の娘で、奥さんはうちの近くの広島市己斐で生まれていますから、広島にもそれなりの縁があるようでちょっと微妙な感じです。
慎太郎がこだわった尖閣諸島も、最初に島を活用したのは日本の海賊で、根拠地にしてたようですね。それが国有地になったわけですので不思議な縁です。

島ではぶらぶら散歩したり、じいさんと話をしたりして午後まで過ごし、夜は自転車で旅をしてる青年を誘って4人で会食。
民宿でお刺身をつくってもらって、いい時間を過ごせました。
5日が雨の予報だったので、旅程を短縮して翌4:00発。逆のコースで16時に寄港しました。

瀬戸内海にとって海賊とは?ということを考える旅となりました。
室町時代に入って瀬戸内海の海賊が活発化し、明などとの貿易船は瀬戸内海を嫌って四国を廻って紀伊水道から近畿にアプローチするようになります。それで栄えたのが堺の町。ここでキリシタンが上陸し、ポルトガル文化との融合が図られますし、町外れの禅宗寺院から茶道が商人に伝わります。この堺の繁栄を、城下町につくりたくで秀吉は大坂城下にベネチアのような埋立地を作り堺の商人を引っ越させます。
この大坂の城と城下町をモデルに、吉田から太田川の浅瀬に引っ越したのが当時の五大老毛利輝元。岡山も江戸も金沢も同じように大坂をモデルに都市計画をし、今でもその成功を享受しています。海賊の玉突き現象が都市計画全盛期を生み出し、江戸時代の商業をインフラとして支えてきたのでしょう。瓢箪から駒とはこのことかもしれません。
広島では、港であった舟入、堀が道に変わった流川、堀川、並木は、今でも繁栄の痕跡を残していますね。
話が完全にそれたので今日はこのへんで。

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禅の修行

ある本を読んでいたら、この本を紹介していたので読んでみました。
美大出身の元パッカーの青年が、永平寺に修行に行く話です。
学生の頃から鈴木大拙の著作が好きだったので禅には興味は持っていました。
もちろん庭や建築を始めとする様々な禅の美意識への興味も。
鈴木大拙は同じ禅でも臨済宗で、永平寺は道元が始めた曹洞宗。
読み進むに従って、似ているけど違うというところが強烈に響いいてきます。

毎年100人以上が永平寺に修行に行くそうです。
日常の動作や行為全てが悟りに向かう修行であるとのことで、一挙手一投足全て厳しくて細かいルールが有ります。
そのルールを大量に覚え、行動しないと、殴る蹴る罵倒される。
食事は偏っているため脚気になるものも続出。
しかし、一年経つとそれなりに行動できるようになり、著者は修業を終え、娑婆に帰ってきます。

この曹洞宗特に永平寺の修行のスタイルは、戦前の軍隊の教練にも導入されたようで、結果的にそれがスポーツ界にも導入され、大阪の体育高校や戸塚ヨットスクールあたりもその影響下にあったと言えると思います。
ただ、厳しさの先にあるものの違いは大きい。
曹洞宗の一人ひとりの生活における気付きから悟りに向かう意識のベクトルは、金太郎飴のような屈強な兵隊をつくるものとは正反対だと思う。

著者は一年で下山しているが、その後の人生も気になっています。

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