謎手本忠臣蔵

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加藤廣さんの歴史小説です。
これまで、桶狭間や本能寺などの様々な歴史上の謎解きをテーマに小説を書いてきましたが、これは忠臣蔵がテーマです。
浅野内匠頭は、なぜ吉良上野介に激怒したのか?
庶民レベルではいくつかの説はありますが、正確な理由は明らかになっていません。
つまり隠されたのではないか?というところがベースになっています。
語り手は、将軍綱吉の側用人柳沢吉保です。
謎解きはまずまずの面白さですが、加藤さんのストーリーの背景にいつも出てくる、関白近衛前久という人物。
足利幕府末期から織田、豊臣、徳川の難しい時代に、朝廷のいわば何でも屋という感じで、武家政権との外交や、裏交渉、陰謀に至るまですべてやった強烈な政治家・・という感じの人だと思います。
本能寺の変を仕掛けたプロデューサーという説も濃厚です。
忠臣蔵でも、近衛前久の子孫がやはり絡んできます。

この近衛前久がらみの人物に、八条宮智仁親王という人物がいます。
こどもが出来なかった豊臣秀吉が、皇族から養子をもらって、豊臣家を相続させるとして候補に上がっていた人物です。
しかし淀君が秀吉との接触のない時期に懐妊。秀頼誕生により養子縁組がご破算になった事件の片方の主人公です。
この智仁親王が作った遊びのための建築が桂離宮です。
そして兄の後陽成天皇が智仁親王を後継にしようとしたが家康に反対され、後陽成天皇の子が後水尾天皇となります。
後陽成天皇の女御で後水尾天皇の母は近衛前久の娘です。
娘の婿が桂離宮を作り、孫が修学院離宮をつくったわけです。
又、老後は銀閣のある慈照寺東求堂で隠居したということですので、ある意味政界と建築界の大プロデューサーだった人かもしれません。

菜の花の沖

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司馬遼太郎の「菜の花の沖」を読みました。
僕の故郷である川尻の船乗りが出てる・・・という話だったので。
1行ほど出てました。
江戸時代中期に、乗り組んでいた北前船が日本海で漂流し、ロシアに漂着したが、脚気を患って一人早々と日本に返還されたそうです。
その川尻の久蔵は、日本に初めて牛痘を持ち込んだとして、ある筋では有名だそうですが、その牛痘は広島藩に上納され、使われること無くどこかで干からびてしまったそうです。
川尻という小さな町は、弘法大師にゆかりのある野呂山という山があることで多少知られていますが、輩出した有名人というと、この久蔵と、毒オレンジ事件の金平会長の二人しかいません。
この本に出てたのは一行ですが、郷土の先輩がどういう場面でどういう事をしてたのか。なんとなくイメージが湧きました。

この「菜の花の沖」の主人公高田屋嘉兵衛。これを読むまでは、大黒屋光太夫とどっちがどうだったかあやふやだった程度でしたが、、、
民間の英雄というのはこういう人!という書きぶりですね。
司馬さんの特徴である、若干人を褒め過ぎなところはあるとしても、先見性、合理性、情熱、人に対する優しさと誠意など、日本人の理想形を絵に描いたような物語として仕上がっています。

嘉兵衛は淡路島の出身ですので、同じ瀬戸内といっても西と東で若干の風景の違いはあるかもしれませんが、江戸時代の中期以降の、日本の国内の物流が瀬戸内を繁栄を生んでいた時代がいかなる時代であったか。一人の英雄の活躍を通してうまく描ききれていたように思います。
日本の金銀の算出も止まり、行政は停滞し、アメリカが独立した後に欧州ではフランス革命、そしてナポレオンが活躍していたこの時期に、船乗りの視点で歴史を描くという、座標を設定自体見事だと思いますし、嘉兵衛の活躍した事件は、ペリー来航に間接的にはつながっていく訳で、逆に言うと、江戸時代が最後に花咲いていた時代かもしれません。
ただ、後半1/4くらいは時代背景の説明になっていて、ここがコンパクトになると流れは非常に良くなると思いますが・・・
しかし、この時代を描くに最もふさわしい人物によって、日本と世界の情勢も含めて描いたいい作品だったと思います。

ジョブズ

今朝、ジョブズが亡くなったというニュースを、車のラジオで聞きました。
いずれそういう時が来る・・・とは思っていましたが、こんなに早く来るとは思ってもいませんでした。
心からご冥福をお祈りいたします。

僕が初めてMacintoshを知ったのはデザイン系の雑誌だったと思います。
建築の雑誌でも、Macintosh plusを担いで施主のところに行ってプレゼンするという企画もありました。
初めて触ったのは、学生時代に味岡伸太郎さんの事務所で。白黒の漢字Taik6.0.8の時代でした。
大学を卒業するときに、手元にあったお金でClassicIIを買うか、旅に出るか?迷った末、旅に出ることに。
そのお金で中国からアテネまで行くことが出来ました。
その後就職した設計事務所で自分用のパソコンとして与えられたIICiが初めての僕のMacとなりました。1993年。
しかし、いずれもジョブズがAppleを去った後の、ジョン・スカリーの仕事です。
もちろんジョブズの魂を受け継いだ経営者やエンジニアがすばらしいプロダクトを世に送り続けていましたが。

じゃジョブズの仕事を最初に知ったのはいつだったのだろう?
と思って調べてみると、、、

1984年。Macintoshが発表された年に、NHKで放映されたハッカー少年が主人公のアメリカのテレビドラマ「マイコン大作戦」ですね。
電話でパソコンを行政機関のコンピューターに繋いで情報を取ったりする今考えると恐ろしい犯罪集団の話なのですが、当時はコンピューターの持つ潜在能力に夢や希望を膨らましたものでした。
この少年が使ったコンピューターが、AppleIIだったんです。
これが最初の出会いですね。

次は、CANONの支店でもらったNeXTのカタログ。今にして思えば、AppleII夢と希望を感じた少年の気持ちを再び彷彿させるようなものでした。
その次がApple復帰。
復帰してからはみなさんがご存知のとおりですが、復帰の直前にWIRED日本語版に独占インタビューが掲載していました。表紙ももちろんNeXTのジョブズ。
この時語ったことが、その後のAppleを再生させた原動力となるものを表現していたように思います。

創業者でありながらAppleを追い出され、NeXTも経営的には失敗。
革新的な製品を世に出すだけでは意味が無い。製品として成功させるには、単にそれそのものが優れているだけではダメなんだということに気づいたと言っていました。
この時に、ドイツ製の洗濯機(Miele?)がすばらしいという話をしていたのが印象に残っています。
一見、ジョブズの生み出したものと相反するような、実用一本槍の堅実な工業製品ですが、、、社会に必要なものはこういう堅実な工業製品なんだということに気づいたとも言っていました。
その後、Appleに復帰し、革新的な製品を作るだけでなく、生産や流通、音楽や電話業界の古いしがらみを打ち破って、社会が求めるものを提供してきました。
Appleの株の時価総額が世界一となったのも、挫折を受け止めて、大きく成長したからだと思います。

Appleの未来を心配する人がいますが、僕はあまり心配はしていません。
僕は、永久にAppleの製品を使い続けるつもりですが、いずれAppleという会社もなくなるかもしれない。
でも、ジョブズの生み出した世界観や、こだわったインターフェイスやデザインのポリシーは、確実にこの世界に伝わっています。
“Stay hungry, Stay foolish.”というメッセージと共に。

崔在皓 白磁展

今日、釉すがの「崔在皓 白磁展」に行ってきました。
李朝のもつおおらかな魅力を感じさせる白磁が非常によかったです。
ものを作る姿勢や、表現について、高麗/李朝時代の文化などいろいろ話ができて有意義な時間が過ごせました。
展覧会は10月8日(土)までです。