「地球の歩き方」の歩き方

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「地球の歩き方」の創刊30年の節目に、スタートした熱い4人の話をまとめたものを中心に出版されたものです。
地球の歩き方と言えば、世代によって様々なイメージを持ってると思います。
時代とともに旅の手段や方法、スタイルが変わってきましたが、日本の若者の傍らにはこの本が常にあったと思います。
「歩き方」メンバーは、1970年代前半からの活動のスタートですから、僕が初めて使った91年は、スタートから20年経った円熟期だった訳です。
そのときの「歩き方」の持つ独特の気配が何をルーツとしていたのかもよくわかるいい本でした。

91年に最初に旅は、大学の卒業式が終わったあとで、有り合わせのお金をかき集めて中国行きのフェリーに乗り、そのままユーラシア大陸を放浪することになったのですが、、、旅のあとで就職することになる設計事務所の所長から、フレーム式のバックパックを借りて行きました。
その所長も若い頃、ヨーロッパを放浪してて、その話をさんざん聞いていたこともおおいに影響を受けてました。所長が旅したのが、ちょうど「歩き方」創刊直前の時期だったと思います。
所長の熱い旅のエネルギーと同じ熱さを、創刊時の4人から感じましたし、旅というものの意味も熱かったんだと思います。

中国だけ旅行するつもりだった僕は、「歩き方中国編」と日本円のチェックだけ持っていました。その後、パキスタンやイラン、トルコ、ギリシャに行くのですが、当然情報は皆無。通貨の名称も、陸路で出入国する町も知らないという状況。
日本人と出会うと、夜に「歩き方」を借りて、行きそうな都市の情報をノートに書き写す日々。面倒になって、次第に、バスターミナルと安宿街がだいたいどのあたりにあるか、美味しい飯屋がどのあたりにあるか。その程度になっていきました。おかげで今でも、町の気配を読んで行動するのはかなり得意ですね。
イランは当時日本語のガイドブックが存在しなかったのですが、陸路で旅する人たちが、紙にイランでの旅情報をメモした「イランへの道」という数枚のコーピーがありました。いろいろな人が書き加えていたり、書き直されていたり。バージョンもたくさんありました。
究極のガイドブックです。

最初に「歩き方」を作った人たちは、そういうものを目指していたんでしょうね。
旅をする人が、同じ道を行く人に伝えるメッセージ。その感謝の気持ちを次の旅人に伝えることで、旅の時空間が醸し出されていくということ。
旅のフロンティアがなくなってしまった現在、情報誌としての「歩き方」の使命は終わってしまったと思いますが、逆にあふれる情報とどういう距離感を持って自由に旅をするのか?という状況でしょうね。

中世の港と海賊

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瀬戸内の原風景をはっきりとイメージさせる書物はなかなか残っていないようです。
水軍や海賊の伝承はそれとなく残っていますが、薄いもやがかかった状況です。
この本は、中世に瀬戸内海西部のいくつかの島を拠点にした港や海賊衆の記録をたどっているものです。具体的で非常に面白かったです。

最初は、蒲刈に拠点を置いていた多賀谷氏。
中世の旅行記にもいくつも出てくる海賊です。本土の広に多賀谷町という地名が残っています。
この多賀谷氏は、もともと伊予の国の西条荘の地頭だったとか。東西の大きな勢力のごたごたで居づらくなって、蒲刈に移住し、海賊となったようです。
ちなみに伊予西条といえば、壮大な山車が集まる祭りで有名な町。ヤンキー度が高そうな町のイメージはありました。長友佑都や眞鍋かをりも西条出身です。
もともとは埼玉の多賀谷の武士だったのですが、鎌倉幕府ができて、西国の荘園の地頭としてやってきた典型的なパターンです。
面白いことに、他の島々の海賊衆も伊予の国から島に移って海賊になったケースが多いということ。安芸の国をルーツとする海賊は、竹原や三原の小早川程度かもしれません。

陸で武力を持って荘園経営をしていた武士が、川も水田も平地も無い島に移り住んでも、麦や魚しかとれません。目の前を富を満載した船が行き来するわけですから、その一部を頂くというのも当時としては当然の発想だったのでしょう。
陸路でも、主要な峠に勝手に関所をつくって通行料をとっていましたので、罪悪感はなかったのかもしれません。

その後多賀谷氏は毛利家について他の領地をもらい、地元に残った一族が広村に移って多賀谷町として地名に残った・・・ということのようです。
僕の出身地の川尻町に、光明寺という真宗の大きなお寺があります。実家の近くで、妹が日曜学校でお世話になっていました。
この光明寺は、多賀谷氏と一緒に移ってきたお寺で、蒲刈の後背地である川尻に寺を築いて今に至ってるようです。
伊予西条は四国八十八ヶ所の霊山石鎚山のお膝元。川尻は空海ゆかりの野呂山のお膝元。
呉の多賀谷町は猛烈な空気汚染で有名な王子製紙の工場のある工業地域で、伊予西条も工業地域。海を挟んだ南北で、多少の共通した特徴はありますね。

鎌倉幕府ができたということは、強烈な政権交代があったということです。
それまでの西国にあった荘園は、寺や神社、京の公家の持ち物でした。
そうした荘園に東国の武士を地頭として片っ端から送り込んでいたわけです。
今で言うと、対抗勢力を支持した企業に、自分の支持者の総会屋を総務部長として片っ端から送り込むということです。
その後、南北朝時代、戦国時代を経て江戸時代に至りますが、西国で政治的、軍事的な支配層となるのは、東国からやってきた武士層ですので、それ以前の西国の人たちはどこ行ったんだろう?と言う感じです。

Appleのこれまでとこれから

1976:AppleがAppleIをつくり
1977:AppleIIをつくった。
1981:IBMがIBM/PCをつくり追撃。(ライバルはIBM)
1984:AppleがMacintoshをつくり、新しい世界を開拓。
1992:MSがWindowsをつくり追撃。(ライバルはMS)
1995:追い越される。
1997:ジョブズは復帰。
2001:OSを一新。(ライバルはLinux)
2001:iPodを開発。(ライバルはSONY)
2004:コンテンツ販売を始め、プレイヤーでは圧勝。(ライバルは既存音楽流通網)
2007:電話を開発。(ライバルは既存スマートフォン)
2010:iPadを開発。(ライバルはAmazon)
2011:iCloudを開発。(ライバルはGoogle)
と言った感じです。

常に時代の最先端に挑み、ライバルと競いながら独自のプロダクトを開発してきたことがわかります。

道具を作ることを目的とするのではなく、あくまで人間の生活や文化にテーマを設定すること。
ハードウェアとソフトウェアを等しく扱い、目的に合わせて最適な手段を選択すること。
デザインに対する執拗なこだわり。毎日使うものだから、シンプルで美しいこと。子どもでも年寄りでも使えるわかりやすいインターフェイス。
ジョブズがやろうとしたことは、最初から一環しています。
時代や技術がヴィジョンにやっと追いついてきたと言う感じでしょうか。

パーソナルコンピューターからの卒業

今日未明、AppleのWWDC(World Wide Developer’s Conference)2011のジョブズのスピーチがありました。
入院先からの参加ですので、特別なイベントとしてかけるものがあったのでしょう。

いわゆるパソコンと呼ばれているパーソナルコンピューターは、実質的にはジョブズが生み出したもので、かつては、個人の可能性を拡張する装置として夢や希望、実質的な成果を僕達にもたらしてくれました。
1977年発表のAppleIIの後、1984年にMacintoshが発表され、その後ハードやソフトの凄まじい進化がおこりました。
その後、ネットワークやインターネット、様々なデジタル機器の進化に伴い、2001年にはジョブズはデジタルハブ構想を発表します。
パーソナルコンピューターは、孤立した箱でなく、音楽や映像など様々なデジタルデバイスのハブとして機能させるという宣言でした。これはパーソナルコンピューターの機能を変えるとか付加するのではなく、存在する意味を再定義するということでもありました。
その後、本来の業務でない家電業界、音楽流通業にも参入し、さらなる個人の可能性を拡張する世界を実現することになります。

そして2011年のWWDCでは、ついにパソコンのOSをダウンロード販売のみにし、数千円で販売することにしました。あわせて、ネット上でデジタルデバイスのコンテンツを共有するサービスの開始も発表しました。
つまりデジタル機器のハブというか軸足にパーソナルコンピューターを置くこと卒業し、ネット上にハブを置くということになります。
つまり、パーソナルコンピューターもiPhoneもiPadもiPodもコンテンツら見ると等価ということになります。
パーソナルコンピューターもそのOSもその手段ということ。
1977年や1984年にパーソナルコンピューターでしか表現できなかったことを、2011年にはパーソナルコンピューターがなくても表現できるようになったわけです。

某OS屋の創業者も古くからのライバルでしたが、あまりにも距離ができてしまった感じです。
ヴィジョンを最重視し、実現したジョブズ。
金儲けを再重視した某OS屋の創業者。
どちらも、スタート時の夢は実現したと思います。
人類の精神や表現、日常生活に大きな影響を与えたジョブズが、病身でありながら、パーソナルコンピューターに決着をつけた。
そんなイベントだったのではないかと思います。