ホキ美術館展ともののけミュージアム

文化の日だったので、どこか美術館に行こう・・・ということで三次に行ってきました。

奥田美術館ではホキ美術館展。
写実絵画ばかりを見てると、いつもの美術を観るのとは違う意識になってきましたが、興味深い作品がいくつもあって面白かったです。写真の出現が絵画の意味を変えたと思いますが、同時に絵を描くプロセスや絵を描く時間の感覚をも変えてしまったように思います。
ピアノ曲は人間が演奏するという前提で作曲されているため、人間の指の数や大きさ、指を操る器用さの制限があります。もしも人間が演奏しないという前提のピアノ曲をつくるなら、これまでできなかった曲が作れると思うし、すでに打ち込んで作曲する世界ではそうなっているのかもしれません。
空間では、体験する人ともに時間は流れていきます。それを数百分の1秒という単位で記録した二次元画像も、また空間として絵を描く対象となっています。時間軸を取り払った空間を描くことが、果たして永遠の時を描くことになるのでしょうか。

もののけミュージアムでは、「いざ!鬼退治 酒呑童子のものがたり」。酒呑童子の鬼退治に関する企画でした。
ここの博物館は、湯本豪一さんのコレクションをもとに作られたもので、とてもいい内容でした。

世界一周に向かうNakula

広島の観音マリーナに入港したNakulaの広島湾を周回する短時間のクルーズに乗せてもらいました。
Nakulaは、これから5年をかけて世界一周に向かうカタマランのヨットで、全長70ftもある最大級のもの。
停泊できるマリーナも少ないうえに、カタマランであるために幅も広くて、運用には大変苦労しそうです。しかし、屋内外のキャビンの広さや、デッキの安定感など、大変すばらしい体験でした。
有志がメンバーとなって購入して、交代で乗り降りしながら世界の様々な海を巡るようです。

東南アジアからインド洋を通って南アフリカへ。大西洋を北上して地中海で一年半過ごし。再び大西洋を横断してパナマ海峡を通って南太平洋の島々を巡った後に、東南アジアでゴールインの予定だそうです。
海が違えば空も、風も、植生も、人も変わると思います。
たくさんの港でも、多くの出来事があると思います。
すばらしい航海を祈っています。

サピエンス全史

読もうと思いながら手をつけてなかったサピエンス全史を読みました。
私たちホモ・サピエンスの誕生から現在まで客観的にわかりやすく、そして未来の可能性も少しふれています。
ホモ・サピエンス以外の広い意味での人類の仲間であるネアンデルタールやホモ・エレクトスなど、私たちのようにならなかった別の人類との違いから見えること、様々な歴史の中で選択可能だった選択肢の可能性など、当たり前と思っている自分たちの常識を俯瞰してみることのできる視点が新鮮でした。

本能寺の変

NHK大河ドラマ麒麟が来るは、たくさんの困難な状況の中、大変楽しめるいいドラマに仕上がったと思います。
主演の長谷川博己さんは、建築史家の長谷川堯氏の御子息。長谷川堯氏といえば村野藤吾氏の研究を行なっており、広島の世界平和大聖堂ともご縁のある方。世界平和大聖堂というと本能寺の変前後に信長や光秀周辺で大いに活動をしていたイエズス会の教会で、光秀の娘ガラシャも信者となっているというご縁もあります。

本能寺の変が起こったことは日本史上極めて大きな事件だったわけですが、動機や背景は藪の中。その後の関係者が必死で隠蔽したのでしょうか?
歴史を見ていく中で、緻密に記録された書物に、空白があるということはそこに何か隠したいことがあったと見るべきで、何を語ったのか?ではなく、何を語っていないのか?を見ていくと、つながりや背景が見えてきます。これは、現在の政治家やマスコミの報道にも言えることですが。

黒幕が指示をして光秀が実行したのか?という説に関しては多くの研究者は黒幕がいるという説。いないという説。ドラマの脚本家はいない説を採用していました。私も半ばそう思います。信長を倒した後の政権構想や、権力の維持のシナリオが無きに等しいので。
226事件と比べるとこちらのほうが計画がはっきりとしています。
しかし、何らかの周辺の協力者や関係者がいないと、実行も不可能だったわけですので、複数いたと言われています。

吉田神社宮司の吉田兼見は日記に4日ほど空白があり、変の後に光秀と最も接触していた人物ですので協力者と見ていいでしょう。
近衛前久がそそのかした中心人物ではないかと思っていますが、前久は変の後に責められ、6月に出家したのちに、11月に三河の家康の元に逃げます。その後も秀吉や家康には改姓など大変な便宜を図っていますので、相当な弱みを両者に握られたと思えます。
秀吉は前久の養子となって関白になり、後に豊臣氏となっていますし、家康は吉良氏から買った系図に松平を付け加えて征夷大将軍になっています。皆前久の主体的な協力無くしては不可能だったことです。
ちなみに信長が所有していて本能寺に持ち込んだ天下の茶器「初花肩衝」は、なぜか後に三河の松平親宅に渡り、徳川家康のものとなります。近衛前久が本能寺から持ち出し、家康のもとに走った時になんらかの理由で松平親宅に渡したと言われています。

イエズス会黒幕説は疑問です。宣教師ヴァリヤーノは天正9年の京での馬揃えの5日前に信長に謁見し、その後5ヶ月に渡って安土に滞在しています。当時の欧州では前年にフェリペ2世によるスペインポルトガル併合があったタイミング。
様々な可能性を踏まえてヴァリヤーノは信長と交渉したと思われます。
結果は信長が拒否したのか、イエズス会との交渉は決裂したと思われ、ヴァリヤーノは安土を去り、別の事業(天正遣欧使節)に邁進します。
ヴァリヤーノは後にマニラ総督に「将兵の強い日本を征服するのは難しいが、明国征服事業に役立つだろう」と手紙で送っているので、日本の侵略を含む計画をもって接触したと思われます。
逆に、信長はイエズス会の明国侵略のアイデアを独自の事業として検討し、それを秀吉が継承するということにつながったと思われます。フェリペ2世や欧州の王政のことも聞いたと思うので、ここで日本の天下の制度を変えるアイデアを思いついたのかもしれません。

深夜の本能寺の変前日に本能寺で行われた茶会は博多の豪商茶人鳥井宗室や神谷宗湛とのものでした。宗室は大名物茶入「楢柴肩衝」を持っていたので、信長は所有の「初花肩衝」と「新田肩衝」に加えて天下の三大・大名物茶入を全て揃えようとしていたようです。
これをセッティングしたのは千利休だと言われています。つまり信長のスケジュールを握っていたキーパーソンは千利休。
後の秀吉の「唐入り」前に、外征反対派の粛清が行われますが、千利休切腹も唐入り反対が原因という説が。信長の「唐入り」阻止を狙って利久が動いた可能性もなきにしもあらずですね。
もしも利休が関与していたなら秀吉にも誘いがあった可能性はあります。
変の後、信長所有の「初花肩衝」は近衛前久によって持ち去られたようですが、「新田肩衝」はなぜか豊後の大友宗麟のもとへ。本能寺の2ブロック隣にあった南蛮寺のイエズス会が持ち出して、天正遣欧使節の準備をしていた大友宗麟に渡したのでしょうか?

変前々日の16時に信長は本能寺に到着(36時間前)。翌日茶会、光秀亀山出陣そして途中18時に謀反の意思を宿老に伝達。早朝本能寺包囲。
堺で家康を接待していた織田信忠は信長の上洛を迎えるために帰京し二条陣屋に滞在し、そこには誠仁親王も。二条陣屋の隣は近衛前久邸。毎日のように変わる情勢だったので、亀山からでは正確な情勢判断は難しかったのではないでしょうか。
タイムキーパーがいて、連絡を取り合っていないと成り立たない計画ですし、何より前日の茶会が信長を京におびき寄せる罠だったのでしょう。
松永久秀や波多野秀治、荒木村重も信長に謀反を起こしていますが、皆自分の城に立てこもっています。光秀も亀山城で挙兵という方法もあったはずですが、無防備な一瞬をつく行動に出ていることから、正確な情報を得られる人物が前日の本能寺にいたと思っていいでしょう。

近衛前久を中心とする京都の陰謀仲間が亀山の光秀と緊密に連絡をとり、茶会開催のタイミングで決行可の連絡を移動中の光秀に送ったというのがあり得るシナリオのように思います。茶会で呼び出すのは利久が担当。

天海僧正は明智光秀との説はありますが、そうであるなら115歳まで生きたことになります。明智左馬之助秀満は天海僧正と同じ1536年生まれとの説もあるので、可能性があるならこちらと思われます。
天海と名乗って関東に現れるのは本能寺の変の6年後で、北条攻めの時には家康の陣幕にいたとされ、1607年からは比叡山復興を担当します。後に方広寺鐘銘事件にも深く関わっているので、豊臣家滅亡のきっかけをつくった人物でもある。山崎の仇を大坂で討った?

春日局は光秀重臣であった斎藤利三の娘。斎藤利三は四国の長曾我部元親と関係が深く、織田の長曾我部攻めが本能寺の変の原因とも言われているほど。信長を討つことは光秀以上に積極的だった可能性は高い。
春の局が結婚した稲葉正成は小早川秀秋の家臣で、関ヶ原の戦い前に東軍に寝返らせた功労者だったという。山崎の仇を関ヶ原で討った?

世を平らかにするためにフェリペ2世→イエズス会→織田信長→豊臣秀吉と海外侵略路線を継承した豊臣政権を討つのが「麒麟が来るシーズン2」とするなら、唐入りを阻止する動きが前半。
後半は秀吉死後、関ヶ原前に東軍の為に命を捨てるお玉(ガラシャ)や、小早川秀秋を動かす稲葉正成そこに茶を飲みに来ている駒、戦場で活躍する細川忠興、大坂の陣で豊臣を滅ぼすきっかけを作った天海僧正(明智左馬之助)など要所要所にシーズン1ゆかりの人物が出てきそうな雰囲気です。当然主人公が家康となるので、菊丸が相当重要な役割を担うことになるはず。

織田信長をあのタイミングで討たざるを得ない動機はいくつもあげられていますが、関わる人によって動機は様々。京の公家は「朝廷制度変更も含む信長政権構想」を止めようというもの。ただし急ぐ必要はなし。光秀でなくても可能。無防備な少人数の茶会をセッティングすればチャンスはその後もあったと思われます。利久にしてもしかり。
光秀や斎藤利三にとっては、織田信孝軍の四国渡海阻止が大きかったと思われるので、あのタイミングしかなかったと思われます。