延岡駅 encross

今年度の建築学会賞を受賞した宮崎県の延岡駅に行ってきました。
延岡市は人口11万8000人、リチウムイオン電池でノーベル化学賞を受賞した吉野さんの旭化成発祥の地で郊外に大きな工場がありました。
旧延岡城や城下町と川を挟んだ地区に駅があり、駅前は八幡宮の門前町やアーケード街がありますが、閑散とした地方都市の駅前という情景です。
寂しさを漂う駅前と打って変わって、このencrossは、多種多様な人が集まっています。
2Fには多くの受験生が受験勉強、Macbook Airを開いて仕事してる人、カップルや友達同士、花のセミナーに来ていた人たち、新聞閲覧コーナーも一杯でした。
1Fのショップも、待合室も。キッズルームの横には狭いながらも遊具のある遊び場もありました。
延岡に住んでる人は幸せだなと心から思いました。

近代以降、ハコやインフラのような形をつくることが公共の整備という認識が強いと思いますが、、、
コミュニティをつくる。そのためのハコという順であることが、気持ちの良い公共施設を生み出すことができるいい事例だと思います。
残念なのは、高梁駅や徳山駅のように大手書店とカフェが存在感ありすぎること。
雑誌での記述によると、途中から落下傘のように現れたとのことですので、乾さんや山崎さんや地元の人たちが時間をかけて育んだ空間は別の姿を目指してたであろうことは想像できます。
こんなに若い人は多くないかもしれないが、活き活きした街を持続可能な形で作り上げるベースができていたかもしれません。

既存の二階建ての駅舎は改装して残し、通路を挟んでencrossは新築されていますが、コンクリートの柱や梁は現場で打設されたものではなくて、工場で作られたものを現場に運んで組み立てられています。
その結果、コンクリートとは思えないスリムなグリッドを作ることに成功していますが、それは現場での施工期間を短縮することや、元の駅舎へのリスペクトも込められています。

延岡は大正末期に化学肥料や化学繊維の工場ができるなど、日本では相当早くに近代が到来した町だったと思います。
1980年代に近代が行き詰まると同時に90年代以降の日本も地方も先の見えない不況と混乱の時代が続いています。
伝統的な価値観から近代に向かい、その次なる時代をつくっていく足掛かりを提示しているのが、乾さんの仕事だと思います。

この建物をつくるにあたって、設計者の乾久美子さんは10年前より、山崎亮さんと地元の団体や人たちと長くワークショップや対話を繰り返してきていたようです。この辺りは、「新建築2019年1月号」「まちへのラブレター:参加のデザインをめぐる往復書簡」参照。

みかん畑

先日、実家に帰ると、母が故郷である岡村島に小さな畑を相続でもらったと言う話を聞きました。
25年ほど前の話です。その間、畑にはしてなかったようですから耕作放棄地ですね。
子供の頃、何度かみかん狩りにも行った場所。
いずれは回り回って僕にも責任が出てくる話ですし、詳しく調べてみることにしました。
いい場所ならDIYで小屋でも作って二拠点居住でも・・・という淡い願望も。

叔父の話をもとにGoogleの航空写真を見てみるが、みかん畑を続けているご近所の畑は確認できるが、それ以外の多くのエリアは原生林に戻ってて領域を判断するのは不可能。
昭和50年代の航空写真ではと見てみると、当時は山一面がみかん畑でした。

それを頼りに現地に行ってみたのですが、、、
道路から入っていく小道がすでに笹で遮られている。
遠い親戚の畑を通っていくのですが、そこも笹の林。
なんとか到着すると、雨水を溜めていた池や石垣の跡など若干の痕跡のある場所に到着。
ちょうど下の畑が耕作中だったので、海までの景色も開けていました。
遠くにしまなみ海道も望むことができます。
何かに活用しようというアイデアは出てこないまま、しかし何もせずというのも心残りなので、蔓草を切ったり、枯れた木を片付けたり。

ここは、ちょうど来島海峡の真正面の場所で、村上水軍の城があった場所のようです。
城ノ谷と言う地名もそこからきたのでしょう。
今後、活用をするのか?それとも時々手入れだけしにいくのか?それとも・・・
社会問題となっている山林や耕作放棄地問題の当事者になりつつあることを自覚した一週間でした。

おおなんDIY木の学校

10月24,25日に、島根県邑南町で、おおなんDIY木の学校の造り付けキッチンの講師をしてきました。
一昨年の田舎リノベスクールからお付き合いが始まって、昨年スタートしたおおなんDIY木の学校の二度目の講師としての参加です。
DIYリフォームアドバイザー制度が始まった時から講師もさせていただいてるご縁です。

邑南町の阿須那地区にある紙楽社さんにカフェ用のキッチンを作るというのが今回のワークショップの目的です。
単に教育用の実習をするのではなくて、実際の古民家再生の現場を使わせてもらって、実践的なワークショップを行うのがこの木の学校の特徴ですから、受講生の方も、実際に古民家を持っていて再生の具体的な技術を学びたいという方も多く参加されています。

初日は講義と昼食の後、パーツの切り出し、仮組み立てまで。
二日目は細々としたパーツの製作と組み立て、設置をした後に、天板の固定。
その後、壁と天板のタイル貼という工程になりました。
去年のうづい通信部での造り付けキッチンからは、引出しや扉の製作も加わりました。

1970年代後半、コンピューターが閉鎖された環境で、原爆や宇宙開発や大企業に使われていた時代、個人が自由に使えるコンピューターを開発して普及させたスティーブジョブズと、スティーブウォズニアックは、個人が能力を拡張した未来を構想していました。
実際、そうなったと思います。

人類は自分の身の回りの必要な道具や環境をつくり、メンテナンスしていくことは当然のスキルだったはずなのですが、高度成長期以降の日本では、失われていっています。
DIYというコンセプトは、WWIIの後の空襲で破壊されたロンドンで、自分たちで主体的に復興させようという自然発生的なもののようです。
身の回りの物や環境を便利に、楽しみながら作っていくことは、本来持っていたはずのスキルなので、それをいろいろな人に教わり、教えたりしながら共有していくことは意義のあることだと思います。

邑南町の阿須那地区の古い街道には、カフェ&ゲストハウスのmikkeと、紙楽社さん、古本屋さん(いい本が揃ってます)、池月酒造、賀茂神社などがあり、ゆったりのんびりした空気感が漂ってます。

eのつくAnne

NHK BSPで「アンという名の少女(ANNE WITH AN”E”)」を放映しています。
昭和後期世代にとっては、村岡花子訳の小説や高畑勲監督のアニメの印象が強いと思います。
高畑監督のアニメには、途中まで宮崎駿さんが関わってたようですが、あまり好きなキャラクターではなかったようで、カリオストロの城に行ってしまったようです。

今回のドラマはカナダのCBCとNetflixの制作で、3シーズンのうちの第1シーズン。
アンがプリンスエドワード島に行くまでの孤児院などでの辛い体験がトラウマになっている設定をはじめ、ありえたであろう様々な社会状況がリアルさを感じるくらい描かれています。
かつてのアンの想い出を大切にするなら観ない方がいいかも。

作者のモンゴメリは1874年(明治7年)生まれなので、高浜虚子や佐藤紅緑と同い年となります。
作品を発表したのは1908年なので、19世紀末のプリンスエドワード島の生活が描かれていることになります。
孤児院で育った少女が高い教育を受けて成長する物語として有名な小説に「あしながおじさん」がありますが、作者のジーン・ウェブスターは1876年生まれ、作品の発表は1912年なのでほぼ同時代と言っていいでしょう。
両作品は、カナダ東北部とニュージャージー州と距離は離れているものの、共に孤児院など社会福祉や女性の教育や社会活動についてをテーマにしていますが、その時代の女性の勢いが今に続いてるように感じます。
日本でも平塚らいてうの青鞜が1911年創刊。
女学校を出て教師をしていた祖母は1905年生まれだったので、大正デモクラシーの時代の空気から何らかの影響を受けているのかもしれません。