iPad

http://www.apple.com/jp/ipad/

今日未明、AppleよりiPadが発表されました。
いろいろ噂が立っていて、気の速い人達の予想や願望よりもおとなしめの内容だったようで、現在のところ評判はいろいろと言った感じです。

僕が注目したいのは、CPUを独自開発しているというところ、ボタンが無いこと、すでにネット上で販売網を構築していることです。

独自開発のCPUは、省電力で画像処理に強く、開発も自由にできるし、無駄も無い。
もともとAppleは、ハードとソフトを明確に分けずに開発していました。
OSも、もともとは単なるSystemと呼ばれていて、新しいハードが出る度に、Systemも新しいバージョンになるという感じでした。
そういう意味で、Appleが自社開発のCPUを持ったということは、iPod→iPhone→iPad→→といった携帯機器のカテゴリに今後おもしろい何かを期待できると思います。
もともと、個人の夢や能力を拡張するために作られたAppleIIやMacでした。初代Macは当時、最小限のサイズで持ち運びを容易にする取ってがついていました。
OSもアプリケーションも、画面の解像度やサイズに依存しないわけですので、色々なサイズのiPad、目的に応じたiPadが出てくれば面白いですね。
キッチンの脇に置いてクックパッド見ながら料理するのであれば、防水性能も欲しいですし、A3サイズのものがでれば図面も描けるし、現場の打ち合わせにも使えます。そうなると防塵、耐衝撃性能も欲しい。
非常に楽しみです。

ボタンが無いこと、つまりインターフェイスについては、かなり画期的じゃないかと思っています。
身の回りの電子機器にボタンやスイッチはいくつあるでしょう?
一番多いのは、DVDレコーダーで30個ほど。永久にマニュアルが必要だと思いますし、リモコンはボタンを減らしたものを含めて2つもあります。
パソコンは、タイプライターをモデルとした入力装置となかなか縁が切れず、英語圏ではフルサイズのニーズが高いため小型化や、携帯化が難しい。漢字圏では思考と入力が分断されやすく、誰もが使える方法となっていない。携帯で使われてる数字キー+予測変換のほうが普及してるかもしれないですね。
そういう意味で、ジェスチャーで表現できる電子機器が普及すると、面白いことになると思います。

Appleよりも先に、Amazonがこうした携帯型の機械を作りました。
どちらも、強力な販売網を持っているということが特徴です。
書物に強いAmazonと、音楽に強いApple。この両者が、両輪となって新しいメディアの可能性を開拓して欲しいものです。

iPadはiPhoneやiTouchの大型版でしかないという評価もありますが、小さな一歩かもしれないけど、将来の可能性を考えれば、大きな一歩だと思います。

リッター100kmの車

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フォルクスワーゲン「リッター100キロ」車発売へ

VWがリッター100kgの超軽量カーを発売するようですね。
車体を軽く、エンジンの無駄をなくし、空気力学抵抗を改善したカーボンファイバーによる自動車です。
vitzの1/3だそうですね。
2気筒のディーゼルエンジンです。

3枚目の写真は、バックミンスターフラーが1933年に設計したダイマクションカー。
似てると思いません?

ガウディ

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先日、世界平和大聖堂で外尾悦郎さんの講演会がありました。
外尾さんは、30年以上バルセロナのサグラダファミリアの彫刻家として聖堂の建設に大いに活躍してきた方です。
講演は、カソリックの教会の信者さんを対象にしていたようなので、建築や彫刻を通して感じた事、生きて会う事は無かったガウディと仕事を通して触れ合ったことなど、人が文化的に生きるというあたりの話でした。
非常に興味深い話でした。

僕は、去年の冬にバルセロナには一週間ほど滞在して、いくつかのガウディの建築を観る事が出来ました。
日本で得ていた情報や、先入観を打ち砕くいくつかの発見?もありました。
それまでは、ガウディは、強烈に個性的な造形や空間を生み出した人物でしたが、それに続く人はいなく、後のモダニズムに覆い隠されるように、歴史上の人物になってしまった・・・という印象を持っていました。
確かに、初期〜中期の作品は彫刻的な建築が多く、多くの新しい挑戦を試みてはいますが、独創的な建築家の個人的表現というものだったように思います。
しかし、サグラダファミリアの生誕の門を上から下まで見て回って、工事中の内部空間を堪能してみると、どうもガウディという人物がやろうとしていた(る)事は、単なる造形じゃないように思えてきました。
それが何なのかははっきりしないまま、翌日、グエル教会の地下礼拝堂にいきました。グエル教会は、ガウディがサグラダファミリアの二代目建築家に就任したため、建設が中断され、地下礼拝堂だけできあがっているというものです。
サグラダファミリアの直前にやった仕事なので、一部とはいえ完成している最後の仕事と言えるかもしれません。
決して重苦しくなく、構造と装飾が一体となった非常に清々しい建築でした。
ガウディは、単なる装飾家ではなく、装飾と構造が一体となった新しいシステムの開拓を目指していたのだろうと思います。
当時はゴシックが行くとこまで行ってしまって、重苦しく、過剰な装飾が醜悪な域にまで達していました。
鉄筋コンクリートが建築の主要構造部として使える状況でもない。
後のモダニストが、装飾と構造を分離する事で新しいシステムを生み出した事とまるで違うアプローチだったわけです。
しかし、その困難な建築は、手仕事でしか成し遂げられませんでしたが、現代ではコンピュータのおかげで、ガウディが目指した建築が再び時代の最先端となろうとしているように思えます。
カラトラヴァフランク・ゲーリーレンゾ・ピアノなどは、時代は違えど、見ている方向は比較的近い人たちではないかと思うのです。
ガウディは過去の人ではなく、これから我々が地球や環境の中に建築を生み出す上で一つの道しるべとして大きな仕事をした人だというのが、僕の感想です。