ヤマタノオロチともののけ姫とゲゲゲ

水木しげるは昔から好きなので、朝の連ドラ「ゲゲゲの女房」はほぼ毎日観ています。原作も先日読みました。
以前、三次の仕事をした時も、怪談話がたくさん残っていて面白かったです。
しかし、僕が生まれ育った瀬戸内海沿岸は、そういう薄暗くって湿っぽくて、なにやら奥が深そうなものはあんまり無いのです。
お祭りも、テキ屋が並ぶだけで、胸踊るようなものも無いですし、大きないわれのある神社も、古墳も、遺跡も殆どないです。
三次市は、スサノオが降臨したとも言われる旧古代都市で、古墳の数も半端じゃないです。
出雲は言わずと知れた古代国家でした。

元々、日本海側は、越のあたりが栄えていて、出雲は越の植民地でした。その代官をだまし討でやっつけ、独立を果たしたのがスサノオ。アメリカでいうとワシントンのような役どころでしょうか。
それを大きくしたのがオオクニヌシ。
そして日本の領主の地位を確保したのですが、後にヤマトに負けてしまいます。
まつりごとのうち、政治をヤマトに取られ、祀りは出雲が仕切るという合意ができることで、国を譲るという形をとります。
その出雲や、友邦の吉備が、宗教の世界や、妖怪の世界の本山として、今に至っている。。。。と僕は思っています。

水木しげるの実家の元々の家業は、北回り船の回船問屋ですから、水木しげるの妖怪好きは、一家に伝わる出雲の伝説・・・ではなく、仲が良かったのんのんばあと呼ばれてたシャーマンっぽいおばあさんの影響でしょうか。

水木しげるの奥様の出身地は、古代出雲の中心地に近く、もののけ姫の舞台の下流あたりだと思います。
学校では、古代は縄文と弥生しか習わなかったのですが、縄文と弥生の隙間に、実は非常に面白い文化があったことを匂わせている映画でしたね。
海賊以外は日本史に出てこない瀬戸内の民から見ると、出雲や吉備は非常に奥が深く、それを秘めてる感じが非常に羨ましいです。

銀閣

先日、NHKで銀閣の番組がありました。
「銀閣よみがえる~その500年の謎~」

解体修理をしていた銀閣の修理中に明らかになったいくつかのことをレポートしています。

庭については、安土桃山時代にポルトガル人が伝えた欧州のルネッサンスの設計思想が反映されていると言う話があったので、今回、附属建物の配置や池の形が違っていたと言うのは書物で呼んだことが有りました。
興味深かったのが、2階の外壁に塗られた白土です。
銀箔という噂もありましたが。
漆喰が使われるようになったのは、海藻の糊が普及する関ヶ原以降のようなので、当時は白い土を塗ることで銀を思わせる白い壁を作りたかったのでしょう。

谷崎潤一郎のエッセイにも有りますが、金も銀も、闇の中に浮かべて楽しむもの。
一階の書院から東に池が広がっています。月夜には、銀白にわずかに光る2階の菩薩堂が池に映り、月と一緒に静けさの美を表現していたと思います。
現在は銀閣は黒く深く沈み、銀沙灘が夜は銀色に輝いていますが、昔はそれが銀閣の建物の上下で同じ気配がしていたのでしょう。

銀閣は、現在至るCoolBeautyの象徴的な建築であり、世界観です。
一休宗純-村田珠光-千利休-小堀遠州—と、日本の美の本流と言うべき出発点でもあります。

学生時代から何度も観てきた銀閣ですが、改めて眺めてみたいと思います。

アーサーランサム全集・再訳

サーサーランサム全集を翻訳した神宮輝夫さんが、第44回エクソンモービル賞児童文化賞、第12回国際グリム賞を受賞したそうです。
たくさんの翻訳が僕たちの心を育ててくれたことに感謝です。
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/jidou/index.html
この記事の中に、気になる一文が、、、
「心おどる冒険物語「アーサー・ランサム全集」は、翻訳出版されてからおよそ40年も読み継がれてきた名作です。2010年より少年文庫化すべく、目下全面的な見直しに取り組んでおられます。」

アーサーランサム全集が、神宮さんの手で再び翻訳されます。
今度は、岩波少年文庫になるそうです。
楽しみですね。

いわゆる南方系とインダス文明

日本は昔は海の底だったので、色々な時代に色々な所からやってきたのが、僕たちの先祖となります。
縄文人とDNAが100%一致した人たちが住む村がシベリアにある(アイヌは90%一致、本土の人は70%一致)ことから、ユーラシア大陸北部のマンモスハンターが縄文人だったといわれています。
問題はその後のルーツです。

縄文人が活躍した後に、水稲作農民が大量に移住してきて弥生時代が始まったというのがこれまでの認識でしたが、どうやらその中間があるようです。

中国で鉄が生産されるよりも前に、日本の鉄が発見されています。
インドで作られた鉄だそうです。
縄文時代の狩猟採取が稲作にいきなり変わったような記述の教科書で勉強しましたが、その間に焼畑農業など畑作もあったようです。
そうした鉄を持ち込んだり、焼畑などで畑作を行っていた集団が大量に移住してきた時代が、水田で稲作をやるはるか前にあったようです。
もののけ姫の世界ですね。

水田で稲作をやる集団は、中国南部の呉や越が滅亡したときの移民(遺民)と言われています。タイ、ベトナム系なので漢民族ではありません。
鉄や焼畑を持ってきた人たちは、古代インドの種族のようです。
大野晋さんがいくつも書物を書いていますが、現在スリランカに多く住む古代インドの言語や生活習慣は、現在の日本とも非常に近いということです。(強調しておきますが、現在のいわゆるインド人(アーリア系)は、縁もゆかりもありません。)
ドラヴィダ語の一種のタミル語と日本語は主要な7割程度は意味や用法が一致するということのようです。
正月の習慣、とんど焼き、57577のポエムなど多くの生活習慣や文化も一致します。
もちろん日本と古代インドだけでなく、朝鮮半島の沿岸部もそうした近似する文化が残っているようです。
インダス文明をつくった水の民が、北方の野蛮な騎馬民族であるアーリア人に侵略され、南に移住し、現在はスリランカに多く住んでいると言う状況です。

お盆休みに、図書館でNHKのインダス文明のビデオを借りてきて見ましたが、言われてみると非常に近いものはあります。
黄河文明やメソポタミア文明と違って、絶対的王権のようなものは無く、武器や戦乱の後も少なく、平和で協調した商人中心の文化だったようです。
そうした海の民が、アジアの沿岸部に拠点を作り、商業や交易を司っていたと言う状況だったことはイメージ可能です。
それが日本までやってきて、鉄が豊富な出雲や吉備に大きな国をつくったと推測されます。

空海は中国に渡っていきなり現地の人とコミュニケーションできたと言う話で、それが天才だから・・・と言う話になっています。
しかし、空海の実家の佐伯一族は、讃岐、安芸(佐伯郡)、豊後(佐伯市)という瀬戸内の要所を抑える海の民です。
当時の海洋貿易の標準語であったドラヴィダ語(日本語と7割一致します)を扱えた・・・ということかもしれません。
僕の故郷の川尻には野呂山と言う大きな山があります。
宮島の弥山の兄貴分のような山で、空海が訪れたという話で、現在も弘法寺と言う寺があります。ここの寺を守ってきたのは、川尻の民(半農半漁)ではなく隣の安浦の民で、林業や古くは焼畑を営む集落の人たちだったようです。

いわゆる北方系のルーツはウラルアルタイ地方のモンゴロイドで、蒙古斑が特徴です。最近はモンゴルなどウラルアルタイ語族の力士が活躍していますが、ブルガリア人も元は同じウラルアルタイ系です。
南方系は椰子の実といっしょにカヌーに乗ってやってきたポリネシア系と言うイメージが強いですが、もう少し遡るとインダス文明にまでいきつくようです。
四大文明の中では一番印象が薄かったインダス文明ですが、まさかつながっているとは夢にも思いませんでした。