ガンダム30年

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機動戦士ガンダムが放映されてから30年経ったそうです。
お台場にはFRP製の実物大模型も作られて賑わってるようです。

僕は丁度小学4年生のころで、夕方の中途半端な時間に放映されていた事を覚えています。
仲よかった南くん家に遊びに行ったとき見てました。
印象に残ってるのは、NYでガルマが死ぬシーンですね。
当時は全く理解できなかったです。
クラスでも、ガンダムが面白い(というか不思議だった)と言っていたのは僕一人でしたね。
不思議なアニメだと思ってるうちに終わってしまったら、数年後映画化されると同時に妙な盛り上がりになってしまって・・・今に至っています。

今週、BSでガンダム関連の番組をやってるので、ちらりと見たのですが、やはりクオリティは高いですね。続編のZガンダム以降になると、ガンダムが持っていた不思議な気配が消え去って、普通のロボットアニメに成り下がっています。
その差は非常に大きいです。表面的な表現は新しくなればなるほど向上していますが、安易でないストーリーや、複雑に組み立てられた細部は、いつまでたってもしっかり伝わるものがあります。

そこの差は、スポンサー(プラモデル屋)に(極力)迎合しない姿勢と、クリエーターの情熱だったんだろうと思います。
特に、安彦良和の関わり方が決定的な差にしてしまったのかなと思いますがどうでしょう?

安彦良和は、特別な才能を持った人物ですが、宮崎駿とは別な道を歩んでいます。
宮崎駿は器用なセールスマンと組む事で、巨大資本を動かす質の高いアニメーションを生み出す事に成功しました。
安彦良和は、制約の多い、金も手間もかかるアニメーションから離れ、一人で生み出す事のできる漫画という手段で表現を続けています。スクリーントーンやベタは息子や奥さんが手伝ってるそうです。
実際、宮崎駿の最高傑作は漫画のナウシカだと思いますが、やはり超集団的行為のアニメーションは、個人の表現というにはあまりに大きすぎます。

その安彦良和が描いてる「ガンダム the origin」は、ぼちぼち終幕に入っていっています。(現在ソロモン攻略戦です)
スポンサーの横やりで、放映回数を削減され、ほぼ打ち切り状態になったガンダムを、改めて描いている傑作。
クリエーターが表現したいものを表現できるフィールドを選んだ作家の大仕事が、ラストを迎える。ことのほうが、年数合わせのお祭りよりも貴重だと思っています。

イランが大変な事になってます。

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イランが大変な事になってます。
選挙に不正があったのではないかと言う事ですが、、、
たぶん不正があったのでしょう。

イランは、アフガニスタンやパキスタンとは少し違う国です。
イラン革命までは、テヘランは中東のパリと言われた西洋文明が流入する華やかな都市でした。
僕がイランに行ったのは、今から18年ほど前の事ですが、、、
パキスタンから列車で入るとき、斜め前に座っていた派手な衣装、派手な化粧のマダムが、もうすぐ国境、、、となると、黒い衣装を取り出して服の上からまとい、髪や、口元を隠しました。
二人がかりで運ぶような大きな金属製のトランクを持参していたので、欧州辺りに遊びに行っていたのでしょうか?

イラン国内に入っても、若い世代はほとんどイスラム教に対しては冷淡で、宗教的拘束は基本的には、こっそり破ろうとしていました。
生活や文化は、我々とほとんど変わらないのですが、表面的にそれを隠さざるを得ないのです。

男女が屋外で手をつないだらムチ打ち、お酒を飲めばムチ打ちなど、かなり厳しかったです。
それでも、ジーンズの上から黒い衣装をまとった若い女性達は、酒と音楽を用意した友人宅で、パーティーをする為に、いそいそと集まっていました。
トルコとの国境はトラックやバスでぎっしりですが、バスの客のかなりの人たちが、トルコ側国境でビールを飲んで、playboyを読む為だけに国境を越えてるのです。

今の情勢でいうと、改革派の人たちは6〜7割程度はいるでしょうか?
バス一台の客で、礼拝してたのはほんの1/3程度でしたから。
生真面目なイスラム教徒は一人だけでした。
明るく、元気なイランの人たちが、普通に暮らせる日が早く来ればいいのですが、、、、
しかし、アジアでもかなり能力が高い組織であるコミテという秘密警察があり、かなり激しく活動しています。
天安門事件のようなことにならないように。。。

大名庭園展

県立美術館でやっている大名庭園展に行ってきました。
あの時代の庭園は茶の湯と深い関係があり、どちらも同じような変遷をしてきています。
当初は、禅宗といっしょに日本に入ってきて、お寺の中で密やかに楽しまれていた時代。
大徳寺の僧侶が堺郊外の寺に移ったことがきっかけで、商人が茶の湯を始め、李氏朝鮮やポルトガル経由でルネッサンスやバロックの影響を受けつつ近畿の武士に伝わり、織田豊臣時代に千利休が大活躍することで全盛期を迎えます。
その後、千利休、古田織部の切腹と、江戸時代のスタート。
桂離宮の造営、小堀遠州のナショナルアーキテクト就任。そして江戸時代の武家の様式の確立と同時に、茶の湯や庭園もそこに組み込まれていきます。
今回の企画は、そうした大名家のスタンダードとしての庭園とその変遷をテーマとしたもので、非常に興味深いものでした。
特に、江戸時代後期には庭園を薬草の研究に利用するなど、蘭学のブームの影響も受けています。

広島浅野藩といえば縮景園。上田宗箇。となるわけで、今回も展示の中心となっていましたが、どんな人物であったかは、書物からではわかりにくいところはありました。古田織部の弟子であり、織豊時代の猛将というと、歌舞いたバロック茶人というイメージはあります。
上田宗箇の残したもので、節のところで角っと曲がった茶杓が印象に残りました。
現在の縮景園は、とても織部とはつながらない印象だったのですが、一度大火で焼けて、何度か改修したそうです。
創建当初はもっとシンプルで大胆だったようですね。
江戸中期以降は、弥次喜多道中のように、旅行が流行しますが、庭園にもそうした影響があったようです。

江戸時代は、武人が現在で言うと公務員として行政を担っていた訳で、その時代に積み重ねられたお役所的、儒教的な様式の向こうに、ちらりと安土桃山の粗削りなエッセンスが垣間見えた。そんな展覧会でした。

石見〜長門紀行その3 千畳敷

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三日目は、千畳敷が最初の目的地です。
ここは、阿蘇の草千里のようなゆるやかで広い草原から海や遠くの海岸、中国山地など180度広がる眺望が望めます。
風は強いですが、テントも張れるようなので、ここをこの日の宿営地にしました。
夕食は、中一の息子がつくったバーモントカレー甘口。魚が無い食事も久々ですが、美味しいカレーでした。

翌日は、川尻岬や角島にでも行こうかと思っていたのですが、長門地方を十二分に堪能したので、お昼までゆっくりして帰途につきました。