岡山・柚木沙弥郎展

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先週末に、柚木沙弥郎展を観に岡山に行ってきました。
岡田新一設計の県立美術館で展覧会、丸善のギャラリーで展示会。
布への染による仕事が多かったですが、絵本の原画などもあって、しっかり観る事が出来てよかったです。
自由にのびのびと表現しているところは非常にいいですね。色の使い方も。

岡山城の近くだったので、ぶらぶらしながら天守閣まで登ってみました。
一応平山城ということですが、川も近く、平城のような感じで、商業と行政を一体化させる都市計画の意志も感じられ、広島城と同時期のものかと思ったらそうでした。
広島城は1589年着工。岡山城は1590年大規模改修開始。
広島城は聚楽第(1586年)と大坂城(1583年)をモデルにしていますが、岡山城は金箔瓦や天守閣の形状など安土城に近い雰囲気も感じます。
あの頃は、織田信長によって中世のしがらみがなくなって、戦国時代も終わり、自由な商業と、大規模な計画的な行政が一体になって日本中があたらしく生まれ変わっていた時期でした。家康の江戸入城は1590年。
五大老の居城だった、江戸、広島、岡山、金沢などが、率先して当時の先進的な都市をつくっていったと思うのですが、当時の時代のスピードにも驚きます。
広島城築城は、だれもがやめろというような無茶な計画で、途中でなんども資金が尽きています。
それも毛利輝元には、先見の明があったということでしょうけど、そうした都市計画のモデルとなる大坂をつくった豊臣秀吉のすごさですね。安土から大坂への飛躍はすごいと思います。

大坂城よりも金がかかったと言われる広島城周辺は、いまは閉鎖的な公共建築や幹線道路が多くて、落ち着きの無い町になっていますが、岡山城周辺は、城下町の風情を残していました。
後楽園は観れなかったので、次回はゆっくり見て回りたいですね。

柳宗理展

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現代美術館の柳宗理展に行ってきました。
以前、鳥取の民芸館でも見たので二度目です。
戦後の工業デザインの佳きスタート地点として、大きな仕事をした人だと思います。
アトリエの風景や、デザインについては、昔AXISの特集で見ていたのである程度は理解していましたが、執拗に一本のラインを生み出すプロセスが非常に興味深いです。
僕たちがシンプルと呼んでいるものの内容の深さや、文化的な厚みを考えさせられましたね。
単に要素を少なくするだけじゃなく、長く飽きられないもの。同時に長くメッセージを発信し続けるもの。
そういうものを目指した姿勢が感じられました。
飽きたら捨てるという悪しき習慣を前提に、今の消費社会は成り立っています。
30年使い込んでもまだ新しい味が出てくるようなものと共に暮らしたいですし、そういう建築を精進して作っていこうとあらためて思いました。
最近の柳ブームが一過性でない事を願っています。

しかしこうして一つに並べて見ると、一人の作家が好きなもの。影響を受けたもの。などが透けてきて面白いですね。
柳宗悦の学習院時代に鈴木大拙に英語を教わったと知ってびっくりしましたが、柳宗悦のお父さんは長崎海軍伝習所第一期生で勝海舟の同級生だったとか。
文化は生活を通して伝わっていくものだと思うので、そういう縁が仕事にも影響してるでしょうね。

段々畑

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先日、倉橋の南端にある鹿島に行ってきました。
ここは広島県最南端で、少し先には松山や周防大島があります。
ここのさらに南端の集落は、段々畑で知られていて、映画の撮影にも使われたそうですね。
海沿いの道を通って集落に入ると単なる小さな海村といった風情で、年の離れた小学生二人が暇そうに遊んでいたり、ばあちゃん数人が話し込んでたりというのどかな空気でした。
漁師さんの家の物干にはウェットスーツが干してありましたので、アワビとかサザエとかウニとか捕れるのでしょうか。

集落を守るように南と北に斜面があります。ここのかなりの面積が段々畑になっています。
畑まで行ってみると、一つ一つの石は小さいけど、綺麗に積んであるし、何より几帳面に手入れされています。雑草が見当たらない。積んだばかりのように、石垣は石だけで組み上げられているようです。
家族でスケッチをしてると、ばあちゃんが通りかかったので、いろいろ聞いてみました。
いつのころかわからないはるか昔から、おばちゃんたちが、石を一つ一つ背負って石垣を作ったそうです。
土は赤土なので、おいしいじゃがいもができるようです。

わざわざ行くのは大変ですが、一見の価値ある石垣でした。

ガウディ

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先日、世界平和大聖堂で外尾悦郎さんの講演会がありました。
外尾さんは、30年以上バルセロナのサグラダファミリアの彫刻家として聖堂の建設に大いに活躍してきた方です。
講演は、カソリックの教会の信者さんを対象にしていたようなので、建築や彫刻を通して感じた事、生きて会う事は無かったガウディと仕事を通して触れ合ったことなど、人が文化的に生きるというあたりの話でした。
非常に興味深い話でした。

僕は、去年の冬にバルセロナには一週間ほど滞在して、いくつかのガウディの建築を観る事が出来ました。
日本で得ていた情報や、先入観を打ち砕くいくつかの発見?もありました。
それまでは、ガウディは、強烈に個性的な造形や空間を生み出した人物でしたが、それに続く人はいなく、後のモダニズムに覆い隠されるように、歴史上の人物になってしまった・・・という印象を持っていました。
確かに、初期〜中期の作品は彫刻的な建築が多く、多くの新しい挑戦を試みてはいますが、独創的な建築家の個人的表現というものだったように思います。
しかし、サグラダファミリアの生誕の門を上から下まで見て回って、工事中の内部空間を堪能してみると、どうもガウディという人物がやろうとしていた(る)事は、単なる造形じゃないように思えてきました。
それが何なのかははっきりしないまま、翌日、グエル教会の地下礼拝堂にいきました。グエル教会は、ガウディがサグラダファミリアの二代目建築家に就任したため、建設が中断され、地下礼拝堂だけできあがっているというものです。
サグラダファミリアの直前にやった仕事なので、一部とはいえ完成している最後の仕事と言えるかもしれません。
決して重苦しくなく、構造と装飾が一体となった非常に清々しい建築でした。
ガウディは、単なる装飾家ではなく、装飾と構造が一体となった新しいシステムの開拓を目指していたのだろうと思います。
当時はゴシックが行くとこまで行ってしまって、重苦しく、過剰な装飾が醜悪な域にまで達していました。
鉄筋コンクリートが建築の主要構造部として使える状況でもない。
後のモダニストが、装飾と構造を分離する事で新しいシステムを生み出した事とまるで違うアプローチだったわけです。
しかし、その困難な建築は、手仕事でしか成し遂げられませんでしたが、現代ではコンピュータのおかげで、ガウディが目指した建築が再び時代の最先端となろうとしているように思えます。
カラトラヴァフランク・ゲーリーレンゾ・ピアノなどは、時代は違えど、見ている方向は比較的近い人たちではないかと思うのです。
ガウディは過去の人ではなく、これから我々が地球や環境の中に建築を生み出す上で一つの道しるべとして大きな仕事をした人だというのが、僕の感想です。