エッシャー

土曜日に、広島市現代美術館で行われたミュジアム・カレッジ「超遠近法で解くエッシャーの秘密」に行ってきました。
講師はシナジェティックス研究所の梶川泰司さん。

エッシャーが生み出した絵画を、独自の解釈によって解き明かすことで、エッシャーが表現しようとした世界観がなんとなく感じ取れるとてもいい講義でした。
僕たちは、目によって視覚情報を切り取って、脳に送って解析することで視野の情報を知覚することができています。たまたま人間の目と脳が今のような状態なので、今のような認識ができていますが、馬や昆虫や魚は目や脳が違うので、僕たちと同じものを見てもまるっきり違う認識がされていると思います。

僕たちの目は片方ずつでは三次元の世界も二次元でしか写し取れないので、左右にずれた二つの情報から送られる情報のずれを解析することで、三次元に復元しているわけです。
つまり
【実態】三次元→【目】二次元→【脳で復元】三次元
と言うわけです。

手で触る触感はダイレクトに三次元を知覚できますが、目ではどうしても間に二次元を挟むというのがもどかしいところでもあり、面白いところでもあります。
彫刻に比べて絵画の表現の豊富さは、そういったところにあります。
建築のような巨大な三次元の物体をつくるときでも、結局ほとんどが二次元に置き換えて三次元化します。

今回のエッシャーの講義では、そうした二次元情報と三次元情報の変換のメカニズムの特徴と限界を深く探った人だったのだろうということがなんとなくわかりました。
単なるだまし絵と言われれば言えるかもしれないですが、そこのだます/だまされるのあたりは、脳の不思議さを一番わかりやすく明快に表現する手段であったということでしょう。

富山の薬売りが薩摩に昆布を売りに行く

たまたま古い本を読んでたら面白い話があった。
表題の通りなんですが、、、
江戸時代末期に、本来は日本海航路を通るはずの商船(北海道の昆布を満載)が難破し、アメリカ捕鯨船→ロシア経由で帰国したという事。
その船は富山の薬売りの船だったそうです。
色々調べていくうちに、財政が崩壊し、当時日本で最貧だった薩摩藩が、中国と密貿易に手を染めていたとのこと。
中国からは麝香などの高価な薬。日本からは北海道産の昆布。
薩摩藩が北海道まで昆布を大量に買い入れに行くと目立つので、薬が欲しい富山の薬売りがこっそり昆布を仕入れて薩摩に運んでいたと言うことのようです。
もちろん直接密貿易をするのではなく、琉球を中継にしていたそうです。琉球もそれで大儲けしたそうです。
最も貧しかった薩摩藩は、それで最も裕福な藩になったようで、それで軍拡し、さらなる富を求めて琉球を侵略したのではないかというのは僕の勝手な想像。

別の本では、伊予松山の向かいにある島を調べていたら、清の国の銅銭が大量に出てきたそうです。本来は鎖国しているはずの清の通貨が、日本国内を出回るはずがないのに・・・
そうした細かなエピソードを見ると、貿易や流通のダイナミズムというものが実感できるし、それが歴史の主人公の栄枯盛衰に大きな影響を与えていることもよくわかります

海の神々展@九州国立博物館

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太宰府にできた九州国立博物館が一周年記念の企画展として「海の神々展」をやっていたのでのぞいてみました。
非常に大きなスケールの建物が、谷間に鎮座しているという感じですが、表に回ってびっくり。建物に顔がついていました。
生命のスケール感覚をオーバーしたハードな空間と、キッチュな亀の顔が複雑な気分。
そのまま博物館にはいると、場末の観光地というか、物産展の雰囲気でした。
ハードなものをなんとかソフトにしようというのか、それはそれで異空間という感じ。太宰府政庁→太宰府天満宮→博物館というルートを大型バスで乗り付けるのだったら、気分は盛り上がったかもしれない。

企画展は非常に興味深いものでした。
住吉、宗像など北九州ゆかりの神社や、その流れの厳島神社、同じく百済系の大山祇神社などから、貴重な国宝クラスのものからレプリカまで、あまり脈絡無く展示されていましたが、なかなか一堂に会することのないものばかりなので、面白かったですね。
海洋神として祀られている人のルーツの多くは百済地方のようでしたが、八幡神は新羅系ではないかと思うのですが、そのあたりは興味あるところです。

広島と毛利輝元と萩と福岡

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ひょんなきっかけで、広島城のことが書かれたHPを見ていると、興味深い一文に目がとまった。
広島城の建設費用は、なんと大坂城よりも多いというのだ。
大坂城が約700億円、広島城が約1000億円。(土木に金がかかりすぎて、建築は簡素だったようですが、、、)
それまで、毛利家は中国地方を支配する大大名とであったが、居城は吉田の山城で、守備は堅かったが当時としては時代遅れだったのだろう。
広島城の計画に着手したのは、大坂城が完成した後のこと。
大坂の町と、大坂城を見ていたく感動し、城下町は大坂を、城は聚楽第をモデルにしたと言われてる。
監修は秀吉の天下をプロデュースした黒田如水。

当時の広島は河口に広がる浅瀬や湿地で、とても建築に適した土地ではないと皆からやめろといわれていたらしい。なのになぜ建設を強行したのだろう?

当時は豊臣秀吉の天下が確定し、それによって実現する日本の経済システムが今後の主流となると思われていた。徳川家康は米経済だったが、織田、豊臣は貨幣経済だった。
徳川政権は領地から生まれる米の生産を政治の中心に置いたが、海外との交易、国内の流通の促進。それによって金を得ることを政治の中心に置いたのが織豊政権だった。それを象徴し、政治の中心となる都市が安土であり、大坂だった。

大坂は元々本願寺があった高台から本願寺を追い出して大坂城を築き、堀割でつながる商都をつくり、堺から強制的に商人を呼び込んできた。
広島も城下町は堀がつながり、碁盤の目の都市が広がっていた。
国内流通や国際貿易にも適した立地でもあるので、西日本の大坂となる町を広島の地に出現させようとしたのだろう。
不幸にして広島城完成前に、関ヶ原の合戦があり、毛利家は周防長門に移るが、そこで萩城をつくっている。
そこでも、海沿いの防衛と流通に適した土地に、城を築いていることから、広島でやり残したことを萩で実現したと思っていいだろう。

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監修した黒田如水も、その後福岡の地に自前の福岡城を築いている。その後の福岡の隆盛は言うまでもないだろう。ちなみに黒田家は薬売りもしていたので、武と商ともにやっていたという意味では、坂本龍馬にもつながるセンスがあったと思われる。

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豊臣政権とまるで違う政策の徳川幕府ができたので、海外貿易も停止し、国内流通でも広島城下は大坂に比べて大きな働きをすることはなかったし、浅野家も経済のセンスは疑問だったけど、もしも毛利が広島城主で、豊臣政権のような経済型の社会が続いていたらどうなっていたのか想像すると面白い。
果たして東洋のベニスとはいわないまでも、中国地方の大坂になったのだろうか?
優れた商人は、経験だけでなく歴史や生活から吸収するセンスも必要。

大坂は堺の商人を注入することで急ごしらえの城下町を大商都にした。
広島の商都としてのインフラはできたと思うが、果たして大商都となるセンスが備わっていたのか?
毛利家は鎌倉時代に厚木から移ってきた東国の荒き武門の家柄で策謀と暗殺を得意とするニヒルな気質。
そのあたりを考えると、夢も萎えてくるので、このあたりで妄想はやめにしておきたい。

毛利輝元は賢公か愚公かは判断つかないが、壮大な夢とそれを実現させる多大なる努力を持ち合わせた人物であったことがわかったことは大きな収穫だった。

くどいようですが
大坂城は700億 広島城は1000億