西洋のキリスト教社会は、サイエンスやアートは、世俗的な社会から距離を置き、お金や権力のために奉仕するのではなく、純粋で神聖な分野となることを目指してきた。明治以降、日本もそうした芸術や科学を受け入れ、今に至っている。
それは、ガリレオ・ガリレイが社会(当時はキリスト教)の圧力で、客観性のある科学的真実を歪められた事も無関係ではないでしょう。ガリレオはほんとに悔しかったと思います。
太陽系の惑星をどう定義するのか?
ちょっと気になる話題ですよね。
僕が幼稚園頃に宇宙戦艦ヤマトが猛烈に流行り、小学校の中学年頃には続編の映画やテレビアニメが放映されました。
そこでも、冥王星は太陽系にお別れする最後の惑星として大きな意味を持っていました。古代進の兄、守が戦死した言われたのも確か冥王星でしたね。
丁度その頃から冥王星は海王星よりも内側の軌道を回る時期で、当時は「水金地火木土天冥海」と覚えたものでした。
最初は何を今更と思っていましたが、観測技術の向上で、太陽系をぐるぐる回る物体は随分発見が進んできたので、再定義をということだったのですが、そもそも冥王星が惑星であるということは昔から問題視されていたようです。
アメリカが唯一発見した惑星で、その名前を取ってディズニーのキャラクターも誕生したようです。(PLUTO)
鉄腕アトムにも同名のキャラクターが存在します。
その再定義も、科学者たちの議論と投票によって決めるというのも新鮮でしたね。
日本だったら公開の場で投票するということはあり得ないですが。
結果は、新しい星を加えるわけでもなく、従来通りのスタイルを守るわけでもなく、課題の修正にとどまりました。
逆に言うなら、今後惑星を増やすべきでないというのが今回の結論の背景にあったのでしょう。
冥王星を許すなら、同等の資格がある星は今後沢山出てくるから、冥王星を外そうということですから。
科学者たちが計算式や数字だけでデジタルに決めるわけでもなく、開かれてはいますが多数決という政治的手法で重要な事を決めるということが面白かったですね。もちろんガリレオの裁判の頃とはもちろん様相は変わっていますが、サイエンスであれアートであれ、社会と完全に切り離されたところでは成立しないということです。
あの人間味のある惑星投票のシーンは、人間の知恵や尊厳の上に社会やサイエンスが成り立っているということを僕たちに示してくれたように思います。
子どもの教科書や、子どもに教えるべきことが、ある意味ひっくり返ってしまうわけですが、そんなことは日常茶飯事だと言うことを子どもにまず教えるべきでしょう。
新しい発見があって変わることもありますが、今回のように話し合って定義が変わるということもあるわけです。
太陽のまわりをぐるぐる回るものの数が変わる訳じゃないし、僕たちにとってそれらの存在意義が変わるわけでもない。
僕たちは一時的に冥王星を惑星と定義していたというだけの話です。
逆にPLUTOらしいと思いませんか?