今年のGWは、知人のヨットに乗せてもらって愛媛県南部の日振島までクルージングしてきました。
日振島は、日本の海賊大将軍 藤原純友の根拠地だった島。
当時とされている古い井戸と戦前に山下喜三郎が建立した記念碑が観光資源として存在していました。
人口は300人強、小学校の児童は13人とのこと。
黒潮の香りのする穏やかな島でした。
出航したハーバーから約150km、片道12時間の航海でした。
もしも公共交通機関を使っていたら、宇和島まで5.5時間、そこから1日3便の高速船で1h。朝6時に出発したら到着は16時過ぎ。
そういう距離の島です。
出港は22時。周防大島と本州を結ぶ大畠の潮のタイミングと、佐田岬の潮のタイミングを見計らって航海計画を立てましたが、ほぼ計画通り。
日の出を迎えたのは周防灘。島に到着したのは10時過ぎ。快適で気持ちのいい航海になりました。
海賊が最初に活発化したのは9世紀後半。純友の乱の100年前です。
寺社による大規模な塩田開発がおこって、海浜に住む住人が追い払われ遊民化したこと。内海の海上交通網が整備されたこと、四国北岸に影響力のあった大友氏、紀氏が政争に負け衰退することによって、四国北岸が物騒になったことなどが背景にあるとされます。
次の活発化は、大陸や半島で唐や新羅、渤海などが滅亡し、次の派遣を巡って日本にも外交使節が頻繁に訪れる時期と重なります。
その西瀬戸内海を征伐にやってきた藤原純友は、部下たちと一緒に海賊を率いて海賊大将軍となるわけです。
今でこそ映画やアニメでありそうなストーリーですが、それが現実であったというのは改めて興味深いです。
特に藤原純友は、摂関体制を確立した藤原忠平の親戚ですから、何かウラがあったのかも?とも思わせます。
東で独立国を目指した平清盛も同じく藤原忠平と近い距離にあったそうで、何がどうなってんだかよくわからない政治状況です。
藤原純友を説得して仲間となった海賊は、この豊後水道の海賊たち。佐伯や宇和島の海洋民たちだったのでしょう。
純友の記念碑をつくった山下汽船の宇和島出身山下亀三郎も、感じるものがあったのでしょう。この山下汽船で大暴れしたのが石原慎太郎のお父さん潔。彼もこの地方出身です。石原慎太郎の海賊っぷり、裕次郎の愛嬌は、この南予地方譲りかもしれません。ちなみに慎太郎の母は宮島の土産物屋の娘で、奥さんはうちの近くの広島市己斐で生まれていますから、広島にもそれなりの縁があるようでちょっと微妙な感じです。
慎太郎がこだわった尖閣諸島も、最初に島を活用したのは日本の海賊で、根拠地にしてたようですね。それが国有地になったわけですので不思議な縁です。
島ではぶらぶら散歩したり、じいさんと話をしたりして午後まで過ごし、夜は自転車で旅をしてる青年を誘って4人で会食。
民宿でお刺身をつくってもらって、いい時間を過ごせました。
5日が雨の予報だったので、旅程を短縮して翌4:00発。逆のコースで16時に寄港しました。
瀬戸内海にとって海賊とは?ということを考える旅となりました。
室町時代に入って瀬戸内海の海賊が活発化し、明などとの貿易船は瀬戸内海を嫌って四国を廻って紀伊水道から近畿にアプローチするようになります。それで栄えたのが堺の町。ここでキリシタンが上陸し、ポルトガル文化との融合が図られますし、町外れの禅宗寺院から茶道が商人に伝わります。この堺の繁栄を、城下町につくりたくで秀吉は大坂城下にベネチアのような埋立地を作り堺の商人を引っ越させます。
この大坂の城と城下町をモデルに、吉田から太田川の浅瀬に引っ越したのが当時の五大老毛利輝元。岡山も江戸も金沢も同じように大坂をモデルに都市計画をし、今でもその成功を享受しています。海賊の玉突き現象が都市計画全盛期を生み出し、江戸時代の商業をインフラとして支えてきたのでしょう。瓢箪から駒とはこのことかもしれません。
広島では、港であった舟入、堀が道に変わった流川、堀川、並木は、今でも繁栄の痕跡を残していますね。
話が完全にそれたので今日はこのへんで。
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