久々の倉敷

倉敷の大原家旧別邸有隣荘の特別公開で田窪恭治さんが襖絵を描いてるというので観に行ってきました。
いつもの長い長い筆でさらさらっと描いてるもので、不思議な空間を作っていて非常に面白かったですね。
昭和のはじめに建てられ、かつて大原家が住んでいたという有隣荘も、面白い建物でした。
西洋の生活様式と、日本のお座敷を融合させたもので、伊東忠太が監修してるというものです。
富豪の生き方というものを垣間見れたひとときでした。

大原美術館も、本館と民芸館をゆっくり見ることが出来ました。
第一次大戦後から第二次大戦までの間に欧州の絵画市場で作品を大量に買い入れてくるということは、当時の日本の状況を考えるとすごく大きな仕事だったと思うし、その頃のパリは20世紀でも特に面白い局面だったと思います。
美術館のスタッフも、おばあちゃんの一歩手前の大先輩も多く、長く美術館を支えてるという気配が、美術が完全に根付いているという厚みある存在感を感じさせてくれます。
継続は力なりですが、そのためには誇りを持った人が居続けるということを意味してるんだなとも思いました。
民藝のコレクションもよかったですね。
その後、街をぶらぶらして、蟲文庫で本を買って帰りました。

倉敷のような重厚感のある文化都市をつくるためには、巨大な財産が必要かもしれませんが、かといって金があればそれができるわけでもない。
文化が社会に必要なんだと心の底から思う人の時間的、空間的な厚みが必須な気がします。
自分が、自分の生きてる地域の中で何をやっていくのか?という事を改めて考える機会になりました。

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む

かつて宮本常一さんが行った、イザベラ・バードの「日本奥地紀行」についてのセミナーを書き起こした本です。
イザベラ・バードは、世界最高の旅行家の一人と言っていいでしょう。
スコットランド人女性で、世界様々な国を旅し、旅行記を残しました。単なる個人の旅行記を超えた学術的にも軍事的にも(当時の)貴重な内容だったと思います。

その本を元に、宮本常一さんが当時の日本の風俗や文化を語る5回ほどのセミナーをそのまま本にしています。
およそ130年ほど前の日本特に東日本の生活や姿がいきいきと描かれてるので、複雑な気分になりますが、130年という時間の長さや重さを感じることができます。
イザベラの記述に、宮本さんが解説を加えることで、イザベラの見た日本がより立体的になります。
宮本さんは周防大島出身なので、東西の文化比較なども盛り込んでてそれもまた面白い。
イザベラ×宮本の2倍楽しめる非常に贅沢な一冊となっています。

読み終えてあとがきを見ると、このセミナーや出版のお世話をした山崎禅雄さんがあとがきを書いている。
十数年前に仕事で何度かお会いしたことのある方です。

イザベラは、同時期に朝鮮や中国にも行っています。
併せて読むと、西洋の列強が押し寄せてきた明治初旬のアジアの庶民の生活がより身近になると思います。

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「地球の歩き方」の歩き方

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「地球の歩き方」の創刊30年の節目に、スタートした熱い4人の話をまとめたものを中心に出版されたものです。
地球の歩き方と言えば、世代によって様々なイメージを持ってると思います。
時代とともに旅の手段や方法、スタイルが変わってきましたが、日本の若者の傍らにはこの本が常にあったと思います。
「歩き方」メンバーは、1970年代前半からの活動のスタートですから、僕が初めて使った91年は、スタートから20年経った円熟期だった訳です。
そのときの「歩き方」の持つ独特の気配が何をルーツとしていたのかもよくわかるいい本でした。

91年に最初に旅は、大学の卒業式が終わったあとで、有り合わせのお金をかき集めて中国行きのフェリーに乗り、そのままユーラシア大陸を放浪することになったのですが、、、旅のあとで就職することになる設計事務所の所長から、フレーム式のバックパックを借りて行きました。
その所長も若い頃、ヨーロッパを放浪してて、その話をさんざん聞いていたこともおおいに影響を受けてました。所長が旅したのが、ちょうど「歩き方」創刊直前の時期だったと思います。
所長の熱い旅のエネルギーと同じ熱さを、創刊時の4人から感じましたし、旅というものの意味も熱かったんだと思います。

中国だけ旅行するつもりだった僕は、「歩き方中国編」と日本円のチェックだけ持っていました。その後、パキスタンやイラン、トルコ、ギリシャに行くのですが、当然情報は皆無。通貨の名称も、陸路で出入国する町も知らないという状況。
日本人と出会うと、夜に「歩き方」を借りて、行きそうな都市の情報をノートに書き写す日々。面倒になって、次第に、バスターミナルと安宿街がだいたいどのあたりにあるか、美味しい飯屋がどのあたりにあるか。その程度になっていきました。おかげで今でも、町の気配を読んで行動するのはかなり得意ですね。
イランは当時日本語のガイドブックが存在しなかったのですが、陸路で旅する人たちが、紙にイランでの旅情報をメモした「イランへの道」という数枚のコーピーがありました。いろいろな人が書き加えていたり、書き直されていたり。バージョンもたくさんありました。
究極のガイドブックです。

最初に「歩き方」を作った人たちは、そういうものを目指していたんでしょうね。
旅をする人が、同じ道を行く人に伝えるメッセージ。その感謝の気持ちを次の旅人に伝えることで、旅の時空間が醸し出されていくということ。
旅のフロンティアがなくなってしまった現在、情報誌としての「歩き方」の使命は終わってしまったと思いますが、逆にあふれる情報とどういう距離感を持って自由に旅をするのか?という状況でしょうね。

道を拓く

間寛平アースマラソン

昨日、寛平ちゃんが世界一周を達成しました。
スタートしたとき、正直無理じゃないかと思っていました。
僕は若い頃、ユーラシア大陸を寛平ちゃんと逆方向で旅(もちろんバスや列車で)したことがありますが、死ぬほどの寒さや暑さに遭遇したし、なにより長期間の旅のモチベーションや、長期的な疲労の蓄積など、とてもとても走って旅するなんて・・・と言う感じでした。
宿で出会った連中と、当時入れなかったチベットまで、地図に道が書いてるから歩いて雲南から行こうぜとか、冗談では言っていました。僕の限界は、シルクロードを旅しようと、ロバと馬車を買ったところまで。
中国の公安にバレてストップされたところまでが、無茶の限界でした。
そういう意味で、寛平ちゃんのアースマラソンは、スタートした時から冷や冷やしながら応援してました。

海や大陸ははるか昔からありますが、そこをバスコ・ダ・ガマやコロンブス、マゼランは走り抜けることで、地域と地域、人と人をつなぐ道を切り開いてきました。
いいことばかりじゃなく、大航海時代は不幸を運ぶ道にもなりましたが、それでも道を拓くことは人類にとってよかったと思えると思います。
現代は、未踏査の地域もなく、旅や探検にかつてのような夢やロマンを求めるのは難しくなっていますが、今回のアースマラソンは、日常的なジョギングで世界をつなぐという意味で、非常に意義があったと思います。

我が家の近くの宮島街道も西から東まで通って行きました。
単なる幹線道路である国道が、寛平ちゃんのおかげで世界につながる道になったのです。
この道を西に行っても、東に行っても世界一周できる。
この道は世界中の町とつながる道なんだと、子供にそう言ってやろうと思っています。