寛平さんと太平洋横断

間寛平一行は無事太平洋横断して北米大陸を走り始めているようです。
素人がヨットで太平洋を横断できるのか?と思ったけど、基本的には元マネージャーの比企さんが準備し、船を操って太平洋を渡って寛平さんを北米大陸に届けるということでした。
日本近海は昔から海上交通の難所といわれ、太平洋横断の蒸気船航路の中継地点になっていなかったら、鎖国がもう少し長く続いていたかもしれないくらい、帆船は近寄りたくない海域のようです。
気候の悪い冬の太平洋を無事渡り切れたのは、多くのサポートしている人たち、特に日本で気象とコース取りのサポートしているスペシャリストの貢献は大きかったようですね。
常に日本と電話で繋がり、音声や画像や動画が行き来することが可能な時代の冒険において、そうした情報を操ることで、現場の臨場感や共時性を多くの人に持たせる・・・ということを実践して見せているイベントですね。
想像力によらない共時性というのは寂しい気がしますが、、、
ファルコン号ではなく、スペースシャトルのような感じですね。

植村さんの頃は、時々届く情報の間が大きく、想像を膨らませる余地がありましたが、現在は途切れることない情報があふれていて、勝手な想像をする余裕もないですね。
もちろん、これは最近始まったことではなくて、通信手段の発達にともなっていることなので、ますます情報の量は増えていくことになると思います。

アナポリスの卒業生であるバックミンスター・フラーは、軍艦に乗って活動する士官としての教育は、通信の無い環境を前提とする最後の世代だったようです。
逐一、本国の上官や、政府に問い合わせて行動するのは現在は当たり前ですし、ミサイルのスイッチも現場ではなく、本国で操作することもある現代では想像も付かないことだと思いますが、昔は命令書を受け取ると、後は情報が途絶えた船の最高指揮官が、全責任を負って判断していたのです。
昔、歴史の時間で習ったペリーは海軍提督ですから、海軍士官です。それが、船を従えてやってきて、琉球や日本と外交交渉を行っていた訳です。(後でやってきたハリスは正式な外交官。)

糸で操られることなく、自由に航海する・・・というのは、物理的には難しい時代ですが、自由な気持ち、自由な心を持って航海することは当然ながら可能です。

寛平さんは、できるかどうかのツメは不十分なまま走り出している感もありますが、詰め切ると自由さが失われてしまうことをわかっていたのかもしれません。
僕たちに、体を張って自由な航海をシンクロさせてくれている寛平さんの健康と安全を(時々)祈ってます。

http://www.earth-marathon.com/

シルクロード

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NHKの一世を風靡したドキュメンタリー「シルクロード」の第一集が今日、最終回を迎えます。
カシュガルからパミールへ
中国のシルクロードの西端のウイグル族の交易の町カシュガルとその周辺が舞台です。
この番組が放映されたのは1981年3月。
僕がシルクロードを旅していて、カシュガルに立ち寄ったのは1991年の5月のことです。
時間が経つのは早いもので、もう17年経ちます。シルクロード放映から27年。
あのがちがちに閉鎖的な中国が、外国の投資を受けて巨大な建築をばんばんつくるとはとても思えなかったし、アジア大会で一杯一杯だった中国がオリンピックを開催すると言うのも、当時はとても想像できなかったです。
しかし、今でもシルクロードには日干しレンガで作った家の中庭のブドウだなの下で家族や友人たちと甘いぶどう酒(ワインではない)飲んでるでしょうし、ロバ馬車で町を移動してる事でしょう。
来週からは、第二集のパキスタンとの国境のクンジェラブ峠から再開します。
インド亜大陸がユーラシア大陸に激突して出来たあの巨大な山脈に、インド洋から砂漠を越えてやってきた雲がぶつかる風景は、恐らく数千万年かわらないと思います。

http://www.nhk.or.jp/archives/kuradashi/tue/

段々畑

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先日、倉橋の南端にある鹿島に行ってきました。
ここは広島県最南端で、少し先には松山や周防大島があります。
ここのさらに南端の集落は、段々畑で知られていて、映画の撮影にも使われたそうですね。
海沿いの道を通って集落に入ると単なる小さな海村といった風情で、年の離れた小学生二人が暇そうに遊んでいたり、ばあちゃん数人が話し込んでたりというのどかな空気でした。
漁師さんの家の物干にはウェットスーツが干してありましたので、アワビとかサザエとかウニとか捕れるのでしょうか。

集落を守るように南と北に斜面があります。ここのかなりの面積が段々畑になっています。
畑まで行ってみると、一つ一つの石は小さいけど、綺麗に積んであるし、何より几帳面に手入れされています。雑草が見当たらない。積んだばかりのように、石垣は石だけで組み上げられているようです。
家族でスケッチをしてると、ばあちゃんが通りかかったので、いろいろ聞いてみました。
いつのころかわからないはるか昔から、おばちゃんたちが、石を一つ一つ背負って石垣を作ったそうです。
土は赤土なので、おいしいじゃがいもができるようです。

わざわざ行くのは大変ですが、一見の価値ある石垣でした。

ガウディ

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先日、世界平和大聖堂で外尾悦郎さんの講演会がありました。
外尾さんは、30年以上バルセロナのサグラダファミリアの彫刻家として聖堂の建設に大いに活躍してきた方です。
講演は、カソリックの教会の信者さんを対象にしていたようなので、建築や彫刻を通して感じた事、生きて会う事は無かったガウディと仕事を通して触れ合ったことなど、人が文化的に生きるというあたりの話でした。
非常に興味深い話でした。

僕は、去年の冬にバルセロナには一週間ほど滞在して、いくつかのガウディの建築を観る事が出来ました。
日本で得ていた情報や、先入観を打ち砕くいくつかの発見?もありました。
それまでは、ガウディは、強烈に個性的な造形や空間を生み出した人物でしたが、それに続く人はいなく、後のモダニズムに覆い隠されるように、歴史上の人物になってしまった・・・という印象を持っていました。
確かに、初期〜中期の作品は彫刻的な建築が多く、多くの新しい挑戦を試みてはいますが、独創的な建築家の個人的表現というものだったように思います。
しかし、サグラダファミリアの生誕の門を上から下まで見て回って、工事中の内部空間を堪能してみると、どうもガウディという人物がやろうとしていた(る)事は、単なる造形じゃないように思えてきました。
それが何なのかははっきりしないまま、翌日、グエル教会の地下礼拝堂にいきました。グエル教会は、ガウディがサグラダファミリアの二代目建築家に就任したため、建設が中断され、地下礼拝堂だけできあがっているというものです。
サグラダファミリアの直前にやった仕事なので、一部とはいえ完成している最後の仕事と言えるかもしれません。
決して重苦しくなく、構造と装飾が一体となった非常に清々しい建築でした。
ガウディは、単なる装飾家ではなく、装飾と構造が一体となった新しいシステムの開拓を目指していたのだろうと思います。
当時はゴシックが行くとこまで行ってしまって、重苦しく、過剰な装飾が醜悪な域にまで達していました。
鉄筋コンクリートが建築の主要構造部として使える状況でもない。
後のモダニストが、装飾と構造を分離する事で新しいシステムを生み出した事とまるで違うアプローチだったわけです。
しかし、その困難な建築は、手仕事でしか成し遂げられませんでしたが、現代ではコンピュータのおかげで、ガウディが目指した建築が再び時代の最先端となろうとしているように思えます。
カラトラヴァフランク・ゲーリーレンゾ・ピアノなどは、時代は違えど、見ている方向は比較的近い人たちではないかと思うのです。
ガウディは過去の人ではなく、これから我々が地球や環境の中に建築を生み出す上で一つの道しるべとして大きな仕事をした人だというのが、僕の感想です。