対馬海峡

対馬海峡を手漕ぎボートで渡れるのか?
答えは条件付でYESです。
対馬、壱岐に立ち寄りながら。かつ冬以外なら何とかなるかもしれない。

秋雨前線が通過した後から、春一番が終わる頃までは、シベリアからやって来た高気圧による強い西風で、海面の波高も高くなり、よほど自信があるボートじゃなければ沖に出ないと思います。
江戸時代の北前船もこの季節は、全面運行停止していました。
無理した航海で、舵を壊してロシアまで漂流という話もよくあったようです。
途中まで、密航船でやってきて、上陸時のみゴムボートを使ったのか?

弥生時代の最初、大陸から大量の亡命者がやってきましたが、呉の亡命者は、この半島経由ルートと言われています。
その日の目的地が目視できるので、体力があれば、江南から日本まで来れるのです。
魏志倭人伝もこのコースでした。

官僚の密入国事件。あまりにも準備不足な上に、時期も悪い。
風船おじさんのようにすっきりしない事件です。

新垣さん

偽ベートーベンの影武者だった新垣さん。
現代音楽の世界では知る人ぞ知る人だったようで、今日のインターネットラジオのクラシックチャンネルから聞こえてくる印象としては、何か悪いことをした・・・という話ではなくて、あの新垣さんが、あんなメロディアスな作曲をしてる!!という驚きの声のほうが大きかったように思います。
(現代音楽の世界では、難解な曲がレベルが高くて、分り易いメロディアスな曲は庶民的というイメージが有るようです。)

詐欺師が、NHKのような権威のあるテレビ局と組んで、心優しい人たちをペテンにかけたという今回の事件ですが、問題の本質は抑えておきたい。

グループで作品を作り上げていくことは、人や物が乏しかった時代ならいざしらず、コミュニケーションやネットワークが濃密な現代では、むしろ当たり前の状況にあります。
偉大な天才がすべてをコントロールするのではなく、個人名が出てこない形で協働した作品作りは今後はさらに当たり前の状況になると思います。

純粋で芸術性の高いものは、なかなか売れない。
これは音楽や美術に限った話ではありません。
売れる文化的なものと、ファインアートは、明確な境界線があります。
売るためには、売れるストーリー、売れる顔、業界のバックアップ、マスコミ対策等そうれはそれで大変な仕事です。
ジブリを見れば解りますが、宮﨑駿さんがどれだけの能力を持っていても、鈴木Pがいなければ、長編商業映画をつくることは不可能なのです。
美術の世界でも、画廊や評論家が、消費者との間にいるからこそ、成り立っていることも同じです。
偽ベートーベンも、詐病をせず、プロデューサーと名乗っていたなら、今でも賞賛されていたと思います。

問題は、売れるストーリーの質の問題だったと思います。
いわゆるテレビが飛びつきそうなストーリーをあらかじめ想定し、自分がそれを演じることで、テレビと二人三脚で成功物語を作り上げたわけです。
もちろん有能な影武者がいたからこそ、その成功がより大きかったと言えます。

ファインアートは、そうした社会的な欲の世界とは一線を引くというのが本来の立場だったはずです。
サイエンスの世界もしかり。
しかし、作り手ではなく、受け手がそれでは満足しない状況があると思います。
ただ美しい音楽ではなく、もう一つ売りになるような事を付加したがる。付加して欲しがるような。
先日の若い女性研究者の偉大な仕事が報道されても、マスコミも消費者も、研究の中身は軽くスルーして、面白そうな付加的な情報を漁っていました。
本物のアーティストや、本物の研究者へのリスペクトが不足し、座を盛り上げる事を仕事にしている芸能人のような役割を彼らに期待している事が、こうした事を誘引してると思います。

本来、純粋でなければならないものに、つい付加的なイメージや価値を付けて見てしまう。
これも仕方がないことかもしれない。
昨年、被曝したピアノのコンサートに行きましたが、楽器の過去の運命が音に影響を与えているとも思えないのですが、何かを求める人のエネルギーでその場は満ちていました。そういう意味では普通のピアノではなかったのです。
元々、日本語の「もの」には、単なる物質としての意味だけでなく、魂や怨霊のような意味もあった。
先日、卑弥呼の鏡が魔鏡であったとの報道がありましたが、まさにそうです。
単なる物質や単なる音楽ではなく、付加的な意味を求めてしまうのは、弥生時代以来の伝統かもしれない。

偽ベートーベンの曲で感動した人は、せめて新垣さんの本来の仕事である現代音楽の曲も聴いてほしい。
音楽の問題は、音楽で落とし前をつけてほしいです。

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府市あわせ

大阪の都構想が前に進まず、市長選挙で前に進めようとしています。
大阪府と大阪市の不仲による行政の停滞と近い状況は、広島でも前知事前市長の時代にもありました。
その問題の解決に、府と市の合併が最善の方法かどうかは検証すべき状況にあると思いますが、報道も学者も行政からも特にリアクションなく今に至ってる感じです。

県庁所在地が政令指定都市となっているところは、大なり小なり似たような状況にはあります。
政令市は独立性を高め、やりたいような行政をどんどんできるのですが、上級官庁である府や県は、それ以外の田舎のお守をする羽目になります。
親子の関係であったはずなのに、叔父と甥のような関係になるのです。ぎこちない関係になるのは当然とも言えます。

道州制を睨んでか、一時期市町村合併が推進された時期がありました。おかげで、基礎自治体の行政能力が一定レベルに底上げされたと思いますが、それ以上の効果はまだ見えていないように思います。
廃藩置県で定められた都道府県も、選挙制度(人口格差)が憲法違反と裁判所にケチつけられるような状況にあります。
廃藩置県の時は、天領を府とし、70万石を基準に県を区割りしたのですが、その後の人口の変動で、明らかな増減が起こっています。
しかし県を合併させることや、道州制を導入したとしても、今の課題は解消は難しいと思います。

日本社会共通の課題ですが、横のつながりを作ることや、横の連携をスムーズに行うことが非常に不得手です。
以前、景気対策で地方に公共事業をばらまいた時も、隣接する町村が、似たような文化ホールや美術館を乱立し、数年後に合併して維持に四苦八苦する例も多発していました。
これを解消するために、合併するのも一つの方法かもしれませんが、全部合併せざるを得なくなってしまう。
根本的には、地方の行政組織の独立性を過剰に規定している地方自治法を改正することが必要なのではないでしょうか。
戦後、民主主義体制の成立の勢いで作られた地方自治法の精神は実際には無視をされ、中央省庁が地方自治をコントロールしています。
しかし制度上は独立しているために、連携がぎこちなく、社会構造の変化に対応することなく、お互いが不信感を持って疑心暗鬼な行政に取り組んでいるように見えます。
先日、あるアメリカの市長がニュースに登場していましたが、その市は市会議員が3人で市長職は3人が交代で勤めているとのこと。
それがベターとは思えませんが、連携と機動性に飛んだ地方行政組織になってくれることが、住民の最大のニーズだと思うのです。

Jリーグアウォーズ

昨日、2013年のJリーグを締めくくるJリーグアウォーズがありました。
感じたこと・・・

1.会場で一番美人だったのはミキッチの奥さんだった
 横顔がチラリ

2.ほとんどが最終節前に選定した優秀選手、ベストイレブンの人選をはじめとして、横浜が優勝を逃した脱力感みたいな雰囲気が、、、
 横浜シニアのがんばりと、若手の台頭が顕著

3.広島の優勝の理由はやはり団結力。横浜が優勝逃したのも団結力の欠如か?
 優勝を逃した俊輔の孤独な涙は、ドイツW杯の中田の孤独な涙に通じるものを感じたが。仲間と喜びを分かち合うよりも、悲しみを分かち合うほうが難しい。

4.広島のフェアプレーは、別に褒められたくてやってるのではなく、それが勝利につながるから。
 今季の広島のアクチュアルタイムは同じくトップだった昨年よりも30秒増えて、平均よりも5分長く、最も短い横浜よりも7分長い。つまり、広島は5分のアディショナルタイムを自分たちのために使ってるということ。反則も蹴りだすクリアもないクリーンなプレーは、攻撃のタイミングや時間をつくるために自ら利用している。
クリーンで強いのではなく、クリーンは強い。これはペトロビッチのこだわりでもあったし、マツダ時代からの伝統でもあった(ようだ)。

5.寿人の舎弟は工藤だけではなかった。
 柿谷も寿人の舎弟か?

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