[amazon_image id=”4947697423″ link=”true” target=”_blank” size=”medium” ]安曇族と住吉の神[/amazon_image]
日本には、古くから海の民が多くいて、様々なグループを作っていました。
広島西部にゆかりあるのは、宗像系で、厳島神社やうちの近くの草津八幡などはその代表的な神社となっています。
他に有名なものは安曇族で、魏志倭人伝には当時の日本人の風俗として安曇族を描いていると言われています。
上半身裸で刺青が入っている風俗は、古くは高倉健さんの映画、現代はヒップホップ系など様々ありますが、これも安曇族の風俗を形を変えつつも今に伝えていると言えるでしょう。
縄文時代から日本の海の民として仕切ってきた安曇族と、比較的新しい住吉系の関連がこの本の主なテーマとなっています。
結論を言うと、海を渡る航海技術を持った安曇族、港湾整備をする住吉がセットで日本各地に政治的に配置された・・・ということのようです。
広島では中区住吉町に住吉神社がありますが、江戸時代の創建ですのでちょっと時代はずれます。
後半では、信州安曇について書かれています。
全国に、安曇にゆかりのある地名(阿曇・安曇・厚見、渥見、熱海、泉など)がかなり残っています。いずれも安曇族の定住地のようです。
消費増税大臣だった安住さんも、石巻市牡鹿半島出身なので、先祖は安曇族かもしれませんね。
沿岸部の漁業好適地に安曇族が住んでたというのはよく理解は出来るのですが、信州安曇野に海洋民族の安曇族が住み着く・・というのも?だったのです。
ここでテーマとなったのは、天武天皇が複数の都を造営しようとしたときの、都の予定地の一つが信州安曇だったという話です。
難波や奈良盆地、せいぜい琵琶湖沿岸から都は動いていないのに、信州の山奥になぜ?
当時は、唐や新羅と全面戦争し、その余波が残っていた時代、唐の侵略に備えた非常時用の都として計画したのではないか?というのが著者の予想です。
ただ、土地として安曇地方を見るだけでなく、そのに至る水路や周辺地域を眺めてみる必要があります。
信州安曇に至る水路は、日本海から糸魚川をさかのぼることになります。安曇の更に上流には諏訪があります。
糸魚川といえば当時貴重な宝石だった翡翠の産地。
ヤマトに政権を譲った出雲が逃げ込んだのは、糸魚川経由で諏訪へ。
ですから、当時の安曇というと、日本海沿岸の政治権力が及ぶ内陸の要地だったと言えるとおもいます。
瀬戸内海にむかって開いている難波や奈良。琵琶湖を通じて日本海に開いている大津。
信州安曇&諏訪は、糸魚川を通じて日本海へ。天竜川を通じて太平洋と繋がっています。天竜川の途中から豊川に変わるとその先には渥美半島があります。
日本海と太平洋を水路で結ぶ中心地が安曇/諏訪と言えます。
そこに都を造るというのは、単に防衛上の観点ではなく、日本の東側の国土を開発する拠点という内政上の目的があったのではないかと思えるのですがいかがでしょう。
天武政権を作る上で強力な支援をしたのがこのあたりの東国勢力だったというのも見逃せないポイントです。