洪水と高床建築

   

海水面が高くて、浸水被害が続いたと思ったら、タイで深刻な洪水です。
海や大河というのは逆らいようのない巨大な龍のようなものだと言ったのは確かにそう思います。
地球温暖化が盛んに憂慮されていた時、海面上昇や、氷河が溶けた水での大洪水の危険性はずいぶん指摘されてきました。
水がいかに怖いか。よく理解できます。

これまで海面は何度も何度も上がったり下がったりしてきました。
一番高かったのは6000年前ころの縄文海進と呼ばれる時期。高台に縄文時代の遺跡があるのは、そこが海岸だったからです。
海に近い峠道は、海峡だった可能性が高いです。
低かった時期は、最後の氷河期で、7万年前から1万年前と言われています。
その頃、現在のインドネシア周辺の浅瀬が地表面となっていて、スンダ大陸と命名されています。
アフリカから出発した人類は、氷河期でありながら赤道に近いこの大陸に大勢住んでいたと言われていて、大陸が徐々に水没するに従って、ユーラシア大陸やオセアニア地方に散らばったと言われています。
毎年数ミリとか数センチ海面が上がって行くということは、振幅を伴って上がっていくわけですから、洪水や浸水の頻度が次第に多くなる。それに音を上げた人が奥地に引っ越すということを繰り返していたのでしょうか。

興味深いことに、この地方には今でも海の上に家を建て、街を作って住んでいる地域があります。
雨季の洪水の多い内陸部の国でも同じように水の上に住んでいます。
厳島神社も同じ建築の形式です。
弥生時代の高床建築は、米蔵に使われていて、それはネズミの害から守るためだった・・と習いましたが、現実にこうした海面上昇を見ると、水辺で暮らすために開発された建築の形式であるように思えます。

稲作と高床建築は非常に相性がいいですが、丸木舟も相性がいいのです。
ベトナムで見かけた足が地面につかないほど深い水田での農作業は、浅い舟(サンパン?)に乗って行なっていました。

土木の世界では、基準点を特定の海面に置きます。
海面を絶対的な基準にしていることが、海をまるでテクノロジーが支配したかの錯覚を生んでいたのかもしれません。
海は100m以上も上下します。
海面が低い時は、日本海や瀬戸内海は広い広い谷でしたし、海面が高い時は今の平地は海面でした。
そういう時として凶暴になりうる海に対して、建築は高く、軽く足を伸ばして凶暴さを受け流す。そういう人類の知恵を感じました。

日本の輸出政策

アメリカは、日本の内需をなんとか取り込みたいようで、TPPに入ることを強要してるようです。
反対派はシンプルな主張で勇ましいですが、賛成派は誰もがモゴモゴした感じで主張もはっきりしない傾向にあります。
TPPに入るかどうかは別として、この円高と、生産性の低下、人件費の高止まり、中国や韓国の追い上げ(追い越し?)も考えると、精密な工業製品を純国産で製造し、外国でバンバン売るという状況は今後は考えにくいでしょう。
似た様な体質のアメリカは、映画やテレビドラマ、特許や独占で固めたウェブを使ったサービスなど、非物質的な輸出で稼いでるようです。
日本は昔からサブカルチャーが得意と言われてきましたが、マイナーだからサブカルチャーなわけで、政府と二人三脚で売り込むところまでは行っていません。

先日、トルコで大きな地震がありました。トルコは元々ウイグルと同族で、古代にはひょっとしたら日本人とも何らかの血の繋がりがあるかもしれない、そういう親密な関係を更に持てる民族です。
何かしてあげたい気持ちはありますが、しかし地震は予防が一番の対策です。地震に強い建築を造ること。これが不幸を最小化する最大の技術です。
同じアジアでは、パキスタンやイラン、アフガニスタンあたりの地域も巨大地震が起っています。
中国でもインドネシアでも大きな地震がありました。
巨大地震の危険性がある地域であっても、地震に対する対策ができている途上国は皆無に近い。
キアロスタミの映画にもなった1990年のイラン地震は3万人もの犠牲者が出ましたが、そのほとんどは日干しレンガの家の倒壊による圧死でした。
途上国では、RCの建物でも、細い柱梁をつくって、その間に煉瓦を積んで壁を作る工法です。
これが非常に地震に弱い。
コストの問題もあると思いますが、耐震性の研究や技術の開発や普及がそもそも不十分じゃないかと思います。
恐らく、先進国のコンサルタントやゼネコンが関与する政府の建物はきっちりと作ってると思いますが、庶民が特に基準も規制もなくつくるものは、手作りの延長のようにも見えます。
こうした耐震技術の普及が未発達な国へ、耐震技術を輸出するというのは、建築の業界の今後の仕事とならないかな。

その国や地方に応じた地震の研究、それを元にした耐震基準の策定、建築規制の政策の立案や、行政を実施するアドバイス。
そして具体的な構造設計や計算プログラムのローカライズ、施工技術の研究と普及。
単品では機能しないので一連の技術をパッケージとして、ODAも使ってその国に長期的に根付くような技術移転をすることができれば、日本の大きな強みになるでしょう。他の追従を許さない輸出商品になりそうな気がします。
もちろん他のジャンルでもおなじでしょう。潤沢な内需で培ったサービスは、独自の商品になり得るように思います。

かつては、島国である日本。無限の広がりを持つ大陸の国々。でした。
しかし、世界は短時間で結ばれ、大陸は島国になりつつあります。逆に島国だった日本は大陸とコネクトされ、地球が一つの領域になっています。
日本は大陸のように。大陸は世界のように。
そうなることは必然となります。
日本がグローバルな波に飲まれると同時に、世界は日本のきめ細やかな文化を求めている。
これから先は、そういう動きが加速しそうな気がしています。

久々の倉敷

倉敷の大原家旧別邸有隣荘の特別公開で田窪恭治さんが襖絵を描いてるというので観に行ってきました。
いつもの長い長い筆でさらさらっと描いてるもので、不思議な空間を作っていて非常に面白かったですね。
昭和のはじめに建てられ、かつて大原家が住んでいたという有隣荘も、面白い建物でした。
西洋の生活様式と、日本のお座敷を融合させたもので、伊東忠太が監修してるというものです。
富豪の生き方というものを垣間見れたひとときでした。

大原美術館も、本館と民芸館をゆっくり見ることが出来ました。
第一次大戦後から第二次大戦までの間に欧州の絵画市場で作品を大量に買い入れてくるということは、当時の日本の状況を考えるとすごく大きな仕事だったと思うし、その頃のパリは20世紀でも特に面白い局面だったと思います。
美術館のスタッフも、おばあちゃんの一歩手前の大先輩も多く、長く美術館を支えてるという気配が、美術が完全に根付いているという厚みある存在感を感じさせてくれます。
継続は力なりですが、そのためには誇りを持った人が居続けるということを意味してるんだなとも思いました。
民藝のコレクションもよかったですね。
その後、街をぶらぶらして、蟲文庫で本を買って帰りました。

倉敷のような重厚感のある文化都市をつくるためには、巨大な財産が必要かもしれませんが、かといって金があればそれができるわけでもない。
文化が社会に必要なんだと心の底から思う人の時間的、空間的な厚みが必須な気がします。
自分が、自分の生きてる地域の中で何をやっていくのか?という事を改めて考える機会になりました。

謎手本忠臣蔵

[amazon_image id=”4103110317″ link=”true” target=”_blank” size=”medium” ]謎手本忠臣蔵 [/amazon_image]

加藤廣さんの歴史小説です。
これまで、桶狭間や本能寺などの様々な歴史上の謎解きをテーマに小説を書いてきましたが、これは忠臣蔵がテーマです。
浅野内匠頭は、なぜ吉良上野介に激怒したのか?
庶民レベルではいくつかの説はありますが、正確な理由は明らかになっていません。
つまり隠されたのではないか?というところがベースになっています。
語り手は、将軍綱吉の側用人柳沢吉保です。
謎解きはまずまずの面白さですが、加藤さんのストーリーの背景にいつも出てくる、関白近衛前久という人物。
足利幕府末期から織田、豊臣、徳川の難しい時代に、朝廷のいわば何でも屋という感じで、武家政権との外交や、裏交渉、陰謀に至るまですべてやった強烈な政治家・・という感じの人だと思います。
本能寺の変を仕掛けたプロデューサーという説も濃厚です。
忠臣蔵でも、近衛前久の子孫がやはり絡んできます。

この近衛前久がらみの人物に、八条宮智仁親王という人物がいます。
こどもが出来なかった豊臣秀吉が、皇族から養子をもらって、豊臣家を相続させるとして候補に上がっていた人物です。
しかし淀君が秀吉との接触のない時期に懐妊。秀頼誕生により養子縁組がご破算になった事件の片方の主人公です。
この智仁親王が作った遊びのための建築が桂離宮です。
そして兄の後陽成天皇が智仁親王を後継にしようとしたが家康に反対され、後陽成天皇の子が後水尾天皇となります。
後陽成天皇の女御で後水尾天皇の母は近衛前久の娘です。
娘の婿が桂離宮を作り、孫が修学院離宮をつくったわけです。
又、老後は銀閣のある慈照寺東求堂で隠居したということですので、ある意味政界と建築界の大プロデューサーだった人かもしれません。