天皇杯 5-0

昨日は久々の休日&久々のサッカー観戦でした。
天皇杯二回戦の広島×JSC戦です。
天皇杯は、プロアマ合わせた様々なカテゴリのカップ戦なので、プロアマがぶつかる二回戦と、元日の決勝(明治神宮で初詣でをして、その後国立でサッカー観戦というのは羨ましい元日の過ごし方です。)が、天皇杯らしい試合です。
この試合は、観音の広スタであったので、有料の試合を見るのも久しぶりですね。盛田が二得点とった試合以来かな。

日ごろは、広いビッグアーチで分散してる人たちが、狭いスタンドに集まってくるので、ビッグアーチであれば、席によって違う客層と混在して座ることになるので、結構新鮮です。
お客さんも、普段は僻地にあるビッグアーチには来ないような雰囲気の人も多く見かけます。昔サッカーやってたけど、沼田でやってるサンフレの試合なんかかったるいけど、観音だから来てやったぞというおっさんとか。
アナウンスも、高校野球のような雰囲気ですし、運営もスタッフも地元のサッカー協会がやってる感じ。スタジアムの鉄骨は錆だらけで、県も財政緊縮で大変そうな感じもしますが、そうした侘び寂びだけじゃなく、空が広く、構造物の占めるヴォリュームガ小さく、ピッチまで近いことから、選手を身近に感じますし、生声の応援もほほ笑ましい。そういう天皇杯二回戦でした。

相手は、パスを回して、激しくぶつかってくる感じの、若々しくて勇気あるサッカーなので、見てて面白かったです。シュートの精度が高ければ、もう少し点差は縮まっていたように思います。
最近は当たり前のようになってしまってしまいましたが、広島の攻撃は、本当にレベルが高い。狭い所でショートパスを廻し、阿吽の呼吸で相手の隙をついて得点を重ねていきます。
復活した森崎和幸も、さんまもよくやっていましたし、李忠成もポストプレーではしっかり仕事をしていました。
中盤のやりくりが厳しいときは、佐藤と2トップを組ませたら面白くなると思います。
こういう質が高いサッカーが、気軽に見れるということは、中々ないことなので、今シーズン残り少ないですが、一回でも多くスタジアムに足を運びたいとあらためて思いました。

いわゆる南方系とインダス文明

日本は昔は海の底だったので、色々な時代に色々な所からやってきたのが、僕たちの先祖となります。
縄文人とDNAが100%一致した人たちが住む村がシベリアにある(アイヌは90%一致、本土の人は70%一致)ことから、ユーラシア大陸北部のマンモスハンターが縄文人だったといわれています。
問題はその後のルーツです。

縄文人が活躍した後に、水稲作農民が大量に移住してきて弥生時代が始まったというのがこれまでの認識でしたが、どうやらその中間があるようです。

中国で鉄が生産されるよりも前に、日本の鉄が発見されています。
インドで作られた鉄だそうです。
縄文時代の狩猟採取が稲作にいきなり変わったような記述の教科書で勉強しましたが、その間に焼畑農業など畑作もあったようです。
そうした鉄を持ち込んだり、焼畑などで畑作を行っていた集団が大量に移住してきた時代が、水田で稲作をやるはるか前にあったようです。
もののけ姫の世界ですね。

水田で稲作をやる集団は、中国南部の呉や越が滅亡したときの移民(遺民)と言われています。タイ、ベトナム系なので漢民族ではありません。
鉄や焼畑を持ってきた人たちは、古代インドの種族のようです。
大野晋さんがいくつも書物を書いていますが、現在スリランカに多く住む古代インドの言語や生活習慣は、現在の日本とも非常に近いということです。(強調しておきますが、現在のいわゆるインド人(アーリア系)は、縁もゆかりもありません。)
ドラヴィダ語の一種のタミル語と日本語は主要な7割程度は意味や用法が一致するということのようです。
正月の習慣、とんど焼き、57577のポエムなど多くの生活習慣や文化も一致します。
もちろん日本と古代インドだけでなく、朝鮮半島の沿岸部もそうした近似する文化が残っているようです。
インダス文明をつくった水の民が、北方の野蛮な騎馬民族であるアーリア人に侵略され、南に移住し、現在はスリランカに多く住んでいると言う状況です。

お盆休みに、図書館でNHKのインダス文明のビデオを借りてきて見ましたが、言われてみると非常に近いものはあります。
黄河文明やメソポタミア文明と違って、絶対的王権のようなものは無く、武器や戦乱の後も少なく、平和で協調した商人中心の文化だったようです。
そうした海の民が、アジアの沿岸部に拠点を作り、商業や交易を司っていたと言う状況だったことはイメージ可能です。
それが日本までやってきて、鉄が豊富な出雲や吉備に大きな国をつくったと推測されます。

空海は中国に渡っていきなり現地の人とコミュニケーションできたと言う話で、それが天才だから・・・と言う話になっています。
しかし、空海の実家の佐伯一族は、讃岐、安芸(佐伯郡)、豊後(佐伯市)という瀬戸内の要所を抑える海の民です。
当時の海洋貿易の標準語であったドラヴィダ語(日本語と7割一致します)を扱えた・・・ということかもしれません。
僕の故郷の川尻には野呂山と言う大きな山があります。
宮島の弥山の兄貴分のような山で、空海が訪れたという話で、現在も弘法寺と言う寺があります。ここの寺を守ってきたのは、川尻の民(半農半漁)ではなく隣の安浦の民で、林業や古くは焼畑を営む集落の人たちだったようです。

いわゆる北方系のルーツはウラルアルタイ地方のモンゴロイドで、蒙古斑が特徴です。最近はモンゴルなどウラルアルタイ語族の力士が活躍していますが、ブルガリア人も元は同じウラルアルタイ系です。
南方系は椰子の実といっしょにカヌーに乗ってやってきたポリネシア系と言うイメージが強いですが、もう少し遡るとインダス文明にまでいきつくようです。
四大文明の中では一番印象が薄かったインダス文明ですが、まさかつながっているとは夢にも思いませんでした。

エスパニョールから透けて見える微妙な関係

以前バルセロナに行ったとき、バルセロナ第二のサッカークラブであるエスパニョールってどうなの?と地元の人に聞いたら、あそこのサポーター連中は、マドリッドの御用聞きばっかりの金持ち連中ばかりだ。と言われました。
ということは、FCバルサのサポーターは、マドリッド嫌いの庶民が多いのかという感じで話は終わりました。

その後、モンジュイックの丘に行き、ミースのバルセロナパビリオンや、磯崎新の体育館を見て、ミロ美術館に行く途中、巨大なスタジアムがあった。
そこが、今回建設された新スタジアムに移転する前の、エスパニョールのスタジアムでした。
バルセロナオリンピックのメインスタジアムをそのまま使ってたようです。
広島のビッグアーチのようなもんですね。
スタジアムの前に小さなコンテナハウスがあって覗いてみると、エスパニョールのオフィシャルショップでした。
バルセロナの至ところにあるFCバルサのオフィシャルショップに比べると、閑散としたそのショップに、そのクラブのバルセロナでの微妙な位置関係が垣間見えたのでした。

日本に帰ってきて、スペインで感じた暗い影の部分が気になったので、スペイン内戦のことを調べてみました。
第二次大戦の前哨戦としておこったスペイン内戦は、ピカソの「ゲルニカ」や、キャパの「崩れ落ちる兵士」、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」など、当時の欧州のクリエイター達が様々な形でその内容を表現しています。
選挙で多数派となった、スペインの社会主義、無政府主義、共産主義等の人民戦線政府が成立し、反対派だった王党派やカソリック、全体主義者などを迫害します。それでフランコが反乱軍を率いて蜂起し、内戦が始まったわけですが、バルセロナは左派の拠点として機能した町で、内戦終了後は徹底的な弾圧があったようです。
そのフランコに対する恨みが反マドリッド意識として残り、それがFCバルサとレアルマドリッドのクラシコを加熱させている要因ともなっています。

今でこそ、スペイン最大の観光資源となったサグラダファミリアも、観光客が見向きもしない時期は、バルセロナ市民は、横を睨みながら通り過ぎていたようです。
カソリック教会も、フランコ陣営だったからだとか。

そういう歴史的な宿命というものが、どこの町でも残ってると思います。
簡単に解消するものでもないですが、それを祭として昇華させることで日常生活を支障ないものにするという知恵が昔からあります。
中村俊輔が加入したことで、バルセロナダービーは日本人にとっては従来とはまるで違う様相を持つことになるわけで、それはそれで非常に楽しみですね。