イランが大変な事になってます。

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イランが大変な事になってます。
選挙に不正があったのではないかと言う事ですが、、、
たぶん不正があったのでしょう。

イランは、アフガニスタンやパキスタンとは少し違う国です。
イラン革命までは、テヘランは中東のパリと言われた西洋文明が流入する華やかな都市でした。
僕がイランに行ったのは、今から18年ほど前の事ですが、、、
パキスタンから列車で入るとき、斜め前に座っていた派手な衣装、派手な化粧のマダムが、もうすぐ国境、、、となると、黒い衣装を取り出して服の上からまとい、髪や、口元を隠しました。
二人がかりで運ぶような大きな金属製のトランクを持参していたので、欧州辺りに遊びに行っていたのでしょうか?

イラン国内に入っても、若い世代はほとんどイスラム教に対しては冷淡で、宗教的拘束は基本的には、こっそり破ろうとしていました。
生活や文化は、我々とほとんど変わらないのですが、表面的にそれを隠さざるを得ないのです。

男女が屋外で手をつないだらムチ打ち、お酒を飲めばムチ打ちなど、かなり厳しかったです。
それでも、ジーンズの上から黒い衣装をまとった若い女性達は、酒と音楽を用意した友人宅で、パーティーをする為に、いそいそと集まっていました。
トルコとの国境はトラックやバスでぎっしりですが、バスの客のかなりの人たちが、トルコ側国境でビールを飲んで、playboyを読む為だけに国境を越えてるのです。

今の情勢でいうと、改革派の人たちは6〜7割程度はいるでしょうか?
バス一台の客で、礼拝してたのはほんの1/3程度でしたから。
生真面目なイスラム教徒は一人だけでした。
明るく、元気なイランの人たちが、普通に暮らせる日が早く来ればいいのですが、、、、
しかし、アジアでもかなり能力が高い組織であるコミテという秘密警察があり、かなり激しく活動しています。
天安門事件のようなことにならないように。。。

2-0→2-3→4-3

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昨日は、久々のビッグアーチでした。
気象庁のHPで短期降雨予報を見ながら、一応カッパ持参で行きました。
キックオフから、神戸の選手がさわることなく、服部が上げたクロスが、坊主頭をかすって神戸のゴールへ。
そして前半終わり頃に、奇麗な高萩の落しから槙野がボレーで追加点。
前半の終わり頃にやっと大久保の存在に気付いたくらい、神戸はかみ合ってなかったです。

しかし後半、いきなり激しく神戸が攻勢をかけてきて、微妙なジャッジからPK。
槙野のゴール前に広島側にハンドっぽいシーンがあったので、埋め合わせと言う事でしょう。ミキッチは怒ってました。
その後、受けに回った広島は、中盤がスカスカになって、2点取られます。
ピッチやスタンドの雰囲気もだるい感じ。このままいくかと思ったら雨が降り出した。

雨が降るといいゲームをする広島。
応援も熱を帯びてきます。
DFの盛田を下げ、ミキッチまで下げて、どうなっとるんだかよくわからないうちに寿人→陽介で一点。その後、高萩→寿人で二点目。
うそみたいな追加点。
あほみたいに攻め上げてるなかで、中島がしっかりバランスをとってました。

浮き沈みの大きい嘘のような逆転劇でした。
こういう試合で勝てるとうになると面白くなります。

これくらい、どうってことはない

今週の気になった一言

「声を出して盛り上げたし、自分ができる精いっぱいのことをやった」。悔しさも当然ある。だが「もっとつらいことがこの先に待っている。これくらい、どうってことはない」

代表に一ヶ月も招集されて、一度も出番がなかった槙野。
しかし、あくまで前向きな姿勢は貫いたようです。
1-2でリードされてたオーストラリア戦でも、ひたすらアップしながら、(FWとして)俺を出せ目線を岡ちゃんに送り続けていたようですね。
限りなく勘違いに近いながらも、常にノリというか(若干軽い)魂を持ち続ける槙野にリスペクトです。

同じ境遇でも、「信用はゼロ。次があるとは思ってない。昨日で終わった。」と語る選手もいます。(山口も好きな選手ですが。)
もちろん年齢やキャリアも違うので同列には取り上げるべきではないとは思いますが、槙野の異様なポジティブさは見習いたいと思います。

明日は久々の観戦予定。
雨で客が少ないときは猛烈にいい試合をする広島。
カッパ持参で参戦します。

大名庭園展

県立美術館でやっている大名庭園展に行ってきました。
あの時代の庭園は茶の湯と深い関係があり、どちらも同じような変遷をしてきています。
当初は、禅宗といっしょに日本に入ってきて、お寺の中で密やかに楽しまれていた時代。
大徳寺の僧侶が堺郊外の寺に移ったことがきっかけで、商人が茶の湯を始め、李氏朝鮮やポルトガル経由でルネッサンスやバロックの影響を受けつつ近畿の武士に伝わり、織田豊臣時代に千利休が大活躍することで全盛期を迎えます。
その後、千利休、古田織部の切腹と、江戸時代のスタート。
桂離宮の造営、小堀遠州のナショナルアーキテクト就任。そして江戸時代の武家の様式の確立と同時に、茶の湯や庭園もそこに組み込まれていきます。
今回の企画は、そうした大名家のスタンダードとしての庭園とその変遷をテーマとしたもので、非常に興味深いものでした。
特に、江戸時代後期には庭園を薬草の研究に利用するなど、蘭学のブームの影響も受けています。

広島浅野藩といえば縮景園。上田宗箇。となるわけで、今回も展示の中心となっていましたが、どんな人物であったかは、書物からではわかりにくいところはありました。古田織部の弟子であり、織豊時代の猛将というと、歌舞いたバロック茶人というイメージはあります。
上田宗箇の残したもので、節のところで角っと曲がった茶杓が印象に残りました。
現在の縮景園は、とても織部とはつながらない印象だったのですが、一度大火で焼けて、何度か改修したそうです。
創建当初はもっとシンプルで大胆だったようですね。
江戸中期以降は、弥次喜多道中のように、旅行が流行しますが、庭園にもそうした影響があったようです。

江戸時代は、武人が現在で言うと公務員として行政を担っていた訳で、その時代に積み重ねられたお役所的、儒教的な様式の向こうに、ちらりと安土桃山の粗削りなエッセンスが垣間見えた。そんな展覧会でした。