オリンピック雑感

それほど熱心ではないながらオリンピックのゲームやコメントを観て興味深いことが多々ありました。

男子バレー:オリンピック出場決定で、、、
植田監督「ここにいない選手もありがとう」
ちょっとした一言ですが、選手の入れ替わりの激しい代表チームでは、出場が決まる試合までに、多くの選手が招集されて、多くの選手がその後、選を漏れる事になります。
いい仕事が出来なかった選手もいますが、決定的な仕事や貢献をしていながらも最後に呼ばれない選手もいます。出場を決めた試合で活躍しても、オリンピックメンバーから外れる人もいます。
当然ながら、勝負の世界なので当然といえば当然ですが、公的な場で、「そこ」にいない選手への感謝の言葉を聞いたのは初めてでした。
厳しさと両立する優しさを感じた一言でした。

小さな選手団
開会式を観ていて、巨大な選手団と、小さな選手団のあまりにも大きな違いにびっくりしました。
これまでもそうだったと思うのですが、、、
ほんの数人の選手団の国は、ほとんど陸上競技が多かったように思います。
巨大な選手団の国が参加する競技は、数カ国でメダルを分け合う競技が多いです。
そういう競技で、途上国の選手がメダルを獲得する事はまれです。
スポーツテクノロジーが極端に発達したアマチュアスポーツで、高い資金を出せる国は非常に限られているということでしょう。
逆なのがサッカーですね。サッカーの強豪国ナイジェリア(男子サッカーベスト8)は、出場する競技はサッカーと卓球と陸上だけ。コートジボアール(同じく男子サッカーベスト8)はサッカーだけ。カメルーン(男子サッカーベスト8)もサッカーだけ。
こうした国の選手は欧州のビッグクラブでプレーしている選手が多いのです。
アマチュアスポーツは経済大国だけがトップを目指し、途上国では基礎能力が高い選手が経済大国でプロとしてプレーする事で祖国の代表チームを大きな大会で活躍させる。
アマチュア=清貧、プロ=金満というイメージが強いですが、実態は違うようです。
日本のサッカーが、表彰台に登る時代が来る事を願っていますが、サッカーでしか表彰台に登る事ができない国も頑張って欲しいですね。

一本柔道
東京オリンピックで柔道が競技種目になりました。
おかげで、日本はメダルをたくさん取れるようになったのですが、柔道の質が変質してしまうという弊害もあります。
元々武士の乱暴な格闘術であった柔術から、加納治五郎が柔道という精神性の高いスポーツをつくりあげたのですが、、、、ローカルなものがグローバルになるということは、そういう事です。NYの寿司のようなものですね。
しかし、年々奇妙なものになってしまう状況には割り切れ無さを感じていました。
そういうときに、本来あるべき形で結果を出すという事は、素晴らしい事だと思います。
途中迷いもあったと思いますが、自分を信じることの大切さ、その為の努力の大切さを、観た人に実感させたと思います。

女子サッカー
最初は自分たちのサッカーが出来ていなくて非常に苦しみましたが、試合を重ねる毎にいいチームになってきています。初戦でミスした選手も、三試合目ではゴールを決めました。
試合ごとに集団としての力が増していくところが、こうした短期の大会の面白い所です。
今日は中国に圧勝しましたが、あと2試合非常に楽しみです。
そういうチームを作れるかどうかが、監督やスタッフの力量の大きなウエートを占めると思います。
2008ドイツW杯や、今回の男子サッカーは、そういうチームになり切れなかったですね。

石山修武 「建築がみる夢」

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http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/0803/index.html

日曜日の新日曜美術館で石山さんを取り上げていましたね。
プノンペンのひろしまハウスをメインにしてたようで、映像も見れてよかったです。
建築というものは、大きなエネルギーが必要なもので、構想から完成までの長い期間、大きな力が必要になってきます。
石山さんは、その建築を産み出すまでのエネルギーを受け止めて、物語に編集するまでの力が特に優れていると思います。
一般社会で声が大きく、力があまりぎみの人たちの溢れんばかりのエネルギーを受け止めて、兆発し、さらにかき立てながら、建築へ(又は未完の建築へ)とじわりじわりとにじり寄ったり、追いつめたりと言う感じです。

山に登ってばかりだった石山さんが建築に開眼したのは、豊橋に住んでいた川合健二さんに出会ってから。
川合さんはとんでもない仙人で、時代の先の先の先を実践していたような人でした。
その川合さんのやり方と、石山さん自身の生命力が掛け合わされて、今のスタイルになったのでしょうね。
石山さんの建築は、建築そのもの以上に、そのプロセスや、建築が建った後のエピソードの方が無茶苦茶面白いです。
僕も、豊橋にいた時に、代表作の幻庵での宴に参加させてもらったことありましたが、面白かったですね。
もちろん、建築という触媒が無いと、そういう面白いものも世に現れないのですが、、、、

少年サッカー/おやじフットサル

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先週末、山口の大会に参加していた子供(小6)のサッカーの試合を見に行ってきました。
自分の息子がどれだけがんばれるか、、、という点は、当然気になりますが、それよりも、チームが次第に力をつけていくプロセスが面白いと思っています。
4月頃には、それぞれのプレイヤーは、それぞれ個性的なところと、それぞれの課題があったのですが、克服する子あり、個性を伸ばす子ありで、4ヶ月経つとなんとなく変わってきています。
広い地域からの混成チームなので、チームとしても4月頃はぎこちなかったのですが、やっと最近になってお互いのプレースタイルを理解した動き方をしたり、声が出てきたりしています。
特に強いチームではないですが、サッカーは個の力だけで結果が決まるものでも無いので、仲間と一つになってプレーすることで、大きな力を発揮するまでにはいってほしいと思っています。

僕もこの年代の時は、野球少年で、お盆と正月の合わせて6日だけが休みで、残りは毎日練習という毎日を送っていました。
昔は、水も飲めなくて、ウサギ跳びやったりする時代ですので、キツかったですね。
僕は体が小さかったし、決して上手じゃなかったですが、球技をやっておくと、物事の状況判断をする時に、結論への到達が早いように思いますし、団体競技をしていると、個と全体のバランスをとることを身に付けることができます。

いい年になってサッカー(フットサル)を始めてはや5年が経ちました。
野球も面白かったですが、サッカーはもっと面白いです。
野球は役割が明確で、どちらかと言うと義務を果たすスポーツですね。責任の所在も明確です。
サッカーは、IFが成り立たないくらい、偶然性の高いスポーツです。
もしもあのタイミングで、あの場所に入り込んでいなかったら/いたら・・・ということを考えてる隙に、どんどん競技は進みます。未来に起こり得ること、本来だったら起こり得たことなど、時間軸を幅広くとってイメージで状況を捕らえないと、とてもやれないですね。
もっぱら、走れないからどうすべきか・・・ということを考えながらやっています。

今年はやっぱり暑かった(い)

去年すごく暑くて、温暖化を実感した年でした。
今年はどうかなと思ってたら去年以上に暑いですよね。

気象庁の統計(広島気象台)を見てみると、、、

6月の日平均気温、全天日射量、降水量は
2008 22.7° 15.1MJ/m2 133.0mm
2007 23.4° 17.0MJ/m2  69.5mm
2006 23.4° 17.6MJ/m2 295.0mm
1994 23.2° 18.2MJ/m2 127.5mm   

7月は
2008 28.5° 21.5MJ/m2  39.5mm
2007 25.7° 14.1MJ/m2 235.5mm
2006 26.6° 14.6MJ/m2 311.5mm
1994 30.1 ° 23.1MJ/m2  27.0mm

8月は
2008  -    -
2007 28.8° 19.9MJ/m2  53.0mm
2006 29.0° 18.46MJ/m2 150.0mm
1994 29.8° 21.0MJ/m2  21.5mm

と言う結果でした。
6月は平年よりもやや気温低めでしたが、7月になって急に暑くなり、去年の8月と同等の平均気温ですが、それ以上の日射量となっています。
雨が降らなくてからからに乾いた暑さだったと言うことですね。
7月にこんなに降らなかったのは1994年以来です。その年は暑かったのでよく覚えています。(その前は1978年、その前は1942年)
ちなみに、1994年は8月も9月も降らなくて水不足で大変で、エルニーニョ現象が原因だと言われていました。
ですから、この暑さは温暖化、、、、というよりも、気象が原因のようですね。
温暖化が原因だと思うと、気持ちが暗くなるので、14〜16年周期の暑い年に当たったと思うしかないですね。
今から節水したほうがいいと思います。

気持ちを切り替えて、元気に乗り切りましょう!

>1994年
全国的にに早い梅雨明け後、全国的に平年を1から2℃上回る観測史上最高の猛暑となった。全国各地で最高気温が35℃を超える暑さとなり、40℃を越えた地域も3ヶ所(アメダス)あった。大阪市[1]と広島市では、沖縄県石垣市以外の国内では観測史上初めて月平均気温が30℃を突破し、名古屋市と大阪市では最高気温の月平均が35℃を超えた。京都市では最高気温が4日間連続して39℃を超え、最高気温の旬平均が37.9℃(任意の5日間では39.2℃)に達した。大分県日田市では22日間連続を含む45日間の猛暑日となった。東京都心でも8月3日に東北地方に上陸した台風11号に南風が吹き込んだため最高気温は39.1℃を観測した。米は豊作であったが、空梅雨で降水量が少なかったことが災いし、全国的な水不足に見舞われた。なお、この年は9月以降も残暑が厳しく、10月以降も季節の進行がかなり遅く顕著な暖秋だった。この猛暑や残暑の要因はインド洋の西側の海水温の上昇によってエルニーニョ・ラニーニャ同様に世界的異常気象を引き起こすダイポールモード現象が指摘されている。

>1978年
記録的に梅雨明けが早く、7月上旬から最高気温が35℃を超える猛暑となり、北日本から関東地方、北陸地方にかけての多くの地点で夏(6から8月)の平均気温が観測史上最も高く、1990年代以前では有数の猛暑年となった。山形県酒田市では8月3日に40.1℃の日最高気温を記録した。1978年は太平洋高気圧の勢力が非常に強く、快晴状態が続き猛暑に加え梅雨明け後の降水量が少なく水不足が深刻化した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/猛暑