騎馬民族は来た!?来ない?!―〈激論〉江上波夫vs佐原真

騎馬民族は来た!?来ない?!―〈激論〉江上波夫vs佐原真

今日の夕方からあっという間に読んでしまった。
江上波夫は、いわゆる重箱の隅をつつく学者ではなくて、全体像を描ける希有な人物。
彼のあまりにもスケールが大きい学説に対して、重箱の隅派が蟻のように群がってケチをつけるという図式ができあがっていたけど、たまたま本屋でこの本を手に取ったら、重箱の隅の蟻の大将と思っていた佐原真と対談をしている。
もちろんソウルオリンピックの翌年の対談なので、今出た本というわけじゃなくて、たまたま目にとまって興味を持っただけということなのですが。

初っぱなは、騎馬民族というタイトルだけでケチをつけていたという事が明らかになる展開だったが、途中で江上さんが盛り上がって大演説をする展開。
後半は、騎馬民族は来たのなら去勢が伝わらなかったのは何故?と執拗に攻められる。実は僕も同じ疑問を持っています。
同じく、生け贄も日本にはあまりない。野菜や魚は生け贄にしますが、家畜の生け贄はない。宦官もいなかったし。

日本に騎馬民族系の王朝ができて、今に至っていることは事実だと思いますが、半島から日本に渡るときに、多くのものを捨てて来ているようです。
文字や物など残る物で立証できることではないので、そこから先は想像することしかできないのですが、僕たちの文化を考えるときには、やはり佐原さんが提起したことは確かに重要ですね。かといって騎馬民族は来なかったというのは極端ですが。

江上さんが自信を持って自分のイメージを提示できるのはやはり騎馬民族の地方に足を運んだからです。モンゴルの遊牧地域に入った日本第一号だそうですね。満州事変の前です。馬賊で危険な時期で面白い紀行文がでてます。
僕も、アジアの中央部を歩いたときに感じた感触があるから、江上説を確かなものと感じることができます。
中国は違和感ありましたが、ウイグルやトルコ、イランは波長が合う感じがありますので。

江上さんは、一度でいいから生でお話を聞きたかったです。

大分紀行 その3

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長湯温泉に到着。歩いてラムネ温泉に。
建築の輪郭が見えてきただけで、嬉しくなってきます。
藤森さんの建築のおもしろさは、独特のフィニッシュの感覚ですね。
普通の建築家だったら、体操の鉄棒の着地のように、ピシッときめようとするのに、藤森さんは(赤塚不二夫のシェーといったら怒られるから)宮崎駿の理想郷のようなフィニッシュになってる。
風の谷のモデルは、フンザだし、藤森さんの生まれた諏訪も高地だし、原空間は近いのかもしれない。
焼杉と漆喰と銅板の建築。のびやかで、ユーモラスで、直線が無い。いい建物です。
焼杉はいいですね。うちの外壁も当初は真っ黒に炭化した焼杉が候補でした。5〜6年前から、炭化した焼杉を使いたいと思っています。
半年前にフットサルで痛めた足の痛みが取れました。恐るべしラムネ温泉。

大分紀行 その2

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大分市内に行くのは学生の時以来でした。高専の研究室のゼミ旅行で大分〜湯布院を廻って以来です。
その後ニュースで聞いたとおり、磯崎さんの大分県立図書館が、解体の予定が撤回、保存されアートプラザ(磯崎建築美術館)に。隣の医師会館は更地になっていました。
アートプラザは、うっすらと薄化粧され綺麗になっていましたが、荒々しい打放しのままのほうがよかったですね。
コンクリートはデリケートな材料だから、どうしても汚れるし、表面が荒れてくる。それに打ち勝つだけの形かどうかが、真価を問われるわけだが、このアートプラザはとてもいい建物です。現代美術でもチュービズムといってチューブがいろいろ流行っていましたが、これもしっかりチューブしてます。残って良かったですね。

その後、長湯温泉に向かうが、途中で伊東さんの庁舎を発見。

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大分紀行 その1

宇佐神宮

連休は大分に行ってきました。
最初は三重のチリダ展に行こうと思ってたのですが、連休中に関西方面をうろうろすると、渋滞に引っかかりそうだったので、チリダ展は鎌倉に行くことにしました。
それで大分に行くことに。。。最大の目的は、藤森さんのラムネ温泉。

昔から、瀬戸内の文化圏のことは気になっていました。
主要なポイントは入り口の宇佐、途中の宮島。中継地点の大三島、讃岐、終着点で仁徳天皇陵がある堺又は住吉大社の大阪。特に宇佐は、天皇一族が九州に渡来し、その後宇佐から近畿に移動し、その後も防衛拠点として整備された土地。
ということで、大分の歴史の本を片手に出発しました。

夜の間に国東半島に渡りとりあえず一泊。石仏など仏教関連の遺構が多い地域だが、当時の仏教の伝来元は新羅。彫刻の技術もそちらから伝わったものだろう。元々彫刻の技術は、アレクサンダーが東洋にもたらし、半島を経由して日本に渡ってきているが、百済系の女性的な曲線(曲面)美と、新羅のハードな力強さはどちらも日本の文化にうまく解け合ってる。
国東〜宇佐は、新羅、百済、出雲文化とも関係が深く、海洋民族との関係も深い。
出雲は新羅(辰韓)出身のスサノオのつくった国で、宇佐神宮の八幡神社は源氏の神だが、源氏も新羅出身の一族。
しかし、白村江の戦い以降、新羅や元の侵略を防ぐ防衛の中心となったのが宇佐神宮。調べればいろいろ因縁がありそうだけど、今後の課題にしよう。
豊前、豊後はなかなか奥が深いということだけ認識して移動。