忍者と八百長

相撲と八百長の報道も、少し落ち着いてきたようです。
相撲がそれほど好きじゃない人ほどヒートアップしてるようですが、こういう問題は、そのジャンルを愛してる人たちが、決着を付けるべき問題だと思います。
八百長が悪なら、日本で行われてる膨大な会議はみんな悪になります。
最初から結論が決まってるのだから・・・

このニュースを見たときに、真っ先に思い浮かんだのは、伊賀や甲賀の忍者達でした。
戦国時代から続いた戦乱が収まった最後の戦いは、天草・島原の乱です。
その後、長い太平の世が続きます。
最後の戦争なので、参加した幕府方の武士たちは相当張り切ったそうです。
戦場での働きが、末代までの待遇を決める訳ですから。
現代の資格試験や、社内の昇級試験のようなレベルとは比べものにならないほどの切迫したものがあったそうです。
自分が死んでも、手柄だけは、誰かに見てもらって報告してほしい・・・ということ。

このときは、甲賀の忍者たちがかなり張り切って参加していますが、怪我をしたという程度の記録にとどまっていて、手柄は特になかったようです。
相手方が、農民やキリシタンで、忍者を雇っていなかったから・・・だそうです。
それまでの戦では、相手方にも忍者がいました。それで、双方にわかる目印で、夜中に会って、双方が知ってる情報を交換して、お互い手柄にする・・・ということをしていたそうです。
相手方に、忍者がいないと、手柄も無い。
ということのようです。

現代でも、政界やビジネスの世界で、いかがわしいけど情報通という人がいて、情報を渡すと、情報をくれるという感じの人がいます。そんな感じの役どころだったのでしょう。

チュニジアーデンマークー村上水軍

人間の感覚というのは不思議なもので、これまで何度となく地中海の地図や航空写真を見てるはずなのに、地中海北岸の地形は頭に入っていたのに、南岸つまりアフリカ側の海岸線の地形や形状は頭に入っていなかった。
イタリアの長靴の先と、チュニジアが思ってたより近いし、シチリア島も、もっと西側にあるかと思っていました。
チュニジアといえば、ジネディーヌジダンの親の出身地としても有名ですが、ユーロ高だったときに、安いオイルサーディンやパスタの輸入元としてもなじみがある土地です。
しかし、地形をみると、何かに似ています。
まず思い浮かんだのはデンマーク。

デンマークは、小さなバイキングビッケでも有名ですが、居直り海賊の名所です。スウェーデンのバイキングが、殺しや略奪の非道の限りを尽くして持ち帰った略奪品を、デンマークの多島海を通って本国に帰る途中、待ち構えていたデンマークの人に補足されます。
デンマークの人は、血も涙もないので、半分置いていけと命じます。
世界を恐怖に陥れたバイキングも、単に待ち構えているだけのデンマーク人にはかなわないので、半分置いていったようです。

日本では、瀬戸内海の大三島周辺海域。いわゆる村上水軍が支配していた地域です。村上水軍は、1割置いていけと言います。
そのかわり、潮流の激しい瀬戸内の水先案内もしますし、ほかの海賊から守ってくれます。

チュニジアは、地中海の中央を遮断しうる場所に立地しています。
東にはイスラム諸国、北にはイタリアの海洋都市、西にはスペインなど。
目の前を富を満載した船が行き来します。
地中海南岸つまりアフリカ北岸は、中東からモロッコやスペインに至る地域をつなぐイスラムの重要な回廊でした。
目の前を異教徒が通るのを素通りさせてたわけではなかったようです。
チュニジア海賊は、風が弱い日に立ち往生してる貿易船を、大勢の奴隷に漕がせるガレー船で強襲します。
財産はすべて没収し、捕虜の身代金を要求する手紙を実家に送らせて、届かなければ奴隷市場で売られます。男はガレー船の漕ぎ手だったようです。
そう考えると、村上水軍の誠実な姿勢は、海賊というよりも、質の高い行政とでもいうべき状況だったと言えると思います。

アフリカ北岸つまり地中海南岸が、いろいろもめてるようですが、歴史的なからみがない日本にいると、本質的な部分での問題点はわからないままな気がします。

白鳥伝説

白鳥伝説 谷川健一

白鳥と古代の伝説の関連に興味があったので読んでみました。
白鳥といえばヤマトタケルノミコトが有名ですが、彼が征伐した部族の土地は、いずれも金属が採掘できる土地だったといわれています。
白鳥と金属採掘民(もののけ姫のエボシ御前達)とのつながりは、古代史の空白を埋めるキーワードのような気がします。

この本は、かなり幅広いアプローチから白鳥伝説と物部氏のつながりやその次代を描いています。
いきなり面白かったのは「日下」(くさか)のこと。
「日下」と書いて「くさか」と読むのは、国語学的にも理由は解明されてないそうです。
谷川さんは、大阪の日下あたりに奈良王朝の前の王朝の首都があったとの仮設を立てます。
ちなみに、日本という国号がつくられたのは律令や日本書紀が整備された時期ですが、その前に、中国の書物に、日本のことを「日下」と記述があったそうです。
倭→日下≒日本
と言う感じです。
日下も、日本も、どちらも「ひのもと」
つまり、太陽が昇るその足元という感じの意味でしょうか。
ちなみに日本人は、古来、朝日を愛で、朝を告げる鶏を神聖視していました。(江戸時代末期までは、日本人は鶏を食べなかったのは神聖視していたからだそうです。)

奈良王朝の前の物部政権は、大阪の日下の草香(ひのもとのくさか)を首都にして、白鳥を神聖視していたということのようです。
ひのもとのくさかが省略され、日下が「くさか」と呼ばれるようになったとか。
なるほどです。
縄文的文化と、弥生的文化の中間に、物部系の山のタタラ文化があり、縄文的なものと弥生的なものの混ざった文化が白鳥と共に日本全土に残ってるというのも面白いです。

建築の歴史では、桂離宮や伊勢神宮的なすっきりとした世界観と、日光東照宮的な猥雑な世界観があり、二つの大きな流れが、ロープのようにねじれつつ一つの流れになって今に至ってると感じます。

邪馬台国?

昨日、NHKで纒向遺跡の発掘の番組をやっていました。
邪馬台国は九州か?奈良か?
昔から熱のこもった論争があります。

その当時、その前後に、卑弥呼や邪馬台国だけが特別だったわけではなくて、たまたま魏の歴史書に記述が残ってるというだけの話ですが、卑弥呼が女性というところが、歴史好きのおじさんたちのロマンをかきたててるのでしょうか?

邪馬台国であろうとなかろうと、纒向は非常に面白いんです。
支配的な文化を持つ文明は、影響下の地域に対して文化や経済、軍事等様々な影響力を行使しますが、文明と呼ぶには、影響を与える建築様式があることが前提となってるようです。
英国が世界を影響下に置いてたときは、煉瓦造の建築が作られましたし、戦後アメリカが支配的であるところでは、コンクリートのモダンデザインの建築が作られました。

纒向は日本で最初の日本を統一する政権で、複数の地域の領主たちが集まってつくった政権のようです。
この時に、同時に前方後円墳も創造され、その後日本全土や朝鮮半島南部にまで広がっていきます。
そしてある時期にぴたっとつくられなくなる。
日本が倭と呼ばれていた時期の首都だったというところです。
全国様々な地方の土器が出土することから連合国家と言われています。
東海系の土器は、数は一番多いけど庶民向けの土器らしくて、都市建設の労働者と言われています。
祭祀に使うものは吉備系だったので、数は少ないけど吉備系は重要な役割を占めていたと言われます。
トップは出雲系だったとか。東海を除けば一番多いのも北陸山陰系です。

関東系 :5%
東海系 :49%
近江系 :5%
北陸・山陰系 :17%
河内系 :10%
紀伊系 :1%
吉備系 :7%
播磨系 :3%
西部瀬戸内海系 :3%

ここでわかるのが、九州がないということ。
つまり、九州北部と対立する勢力が、瀬戸内海と日本海で連合し、瀬戸内海と東海をつなぐ中間地点である奈良盆地の南に首都をつくったという説が有力です。
実際、前方後円墳があることろが纒向を作り、前方後円墳が少ないところと対立していたという感じじゃないかと思えます。
弥生時代の有力なクニがあった佐賀〜福岡の一支国や伊都国、末盧国、奴国あたりには前方後円墳はなく、それを取り囲む形で西側に前方後円墳があります。

魏志倭人伝では、魏から邪馬台国に行くために通過するのは、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国など。いずれも纒向には参加してないし前方後円墳もない。
もしも纒向に行きたければ、出雲〜敦賀〜琵琶湖〜奈良というルートを通ると思う。
当時は鉄の輸入ルートを巡って激しい勢力争いをしてて、外国との交易ルートや国内の流通ルート(瀬戸内海、下関、琵琶湖など)も争いのかなり重要なポイントでした。
ヤマダ電機とエディオン連合という感じでしょうか。

だから、纒向は違うかな?というのが現時点での想像(妄想)です。

昨日の番組では、祭祀を行っていたと思われる主だった建築の横の穴から桃の種が2000個以上出てきた。もちろん海のものや山のものも。
桃といえば道教。
道教といえば黄巾の乱。
黄巾の乱の残党が卑弥呼の先祖という説もありますから、祭祀の痕跡からすると、なんらかの道教の影響が濃いということは事実のようです。そちらの線で行くと、纒向が有力ということになります。

黄巾の乱の残党は江南地方から海づたいに日本に来たと言う説もあり、魏志倭人伝の頃は奄美のあたりにいたという説もある。距離的にはぴったりです。
そうなってくると、どっちでもないということで、論争もすっきりと収まると思うのですが。