マルガリータ

盆前に、村木嵐さんの「マルガリータ」を読んで、ぼろぼろ泣いてしまいました。
天正少年使節4人のうちの一人、千々石ミゲルが主人公です。
歴史と社会の大きな歯車に、4人の少年が踏み潰されつつも、共に誓った約束を守るために・・・・という話です。
大きな悲劇を扱う話では、善悪を明確に決めてストーリーを構築することで、読者の負担を軽くすることが多々有りますが、この話ではローマ法王も豊臣秀吉、徳川家康・・も皆、政治家としての政治的判断で悲劇の引き金を引きます。
重くて悲しい話なのですが、泣き終えたらすっきりする読後感。

構成も確かで、ストーリー展開も巧み。
最後まで謎を引っ張ったままでフィナーレを迎えます。
千々石ミゲルの最後の言葉の謎は、明かされず仕舞い。
手塚治虫であれば、これを漫画にできるかも・・・と思いました。

どんな人だろうと・・・思って調べてみると、、、
女性。千々石ミゲルと二人の女性の関係が軸なので、そこは非常によく描けていました。
1967年生まれ。ひとつ先輩です。
なんと司馬遼太郎の最後のお手伝いさんで、現在は奥様の秘書をされているとか。
納得です。
司馬家お手伝いからデビュー 「マルガリータ」で松本清張賞受賞の村木嵐さん

歴史系のドラマや小説は、どこまで史実でどこから創作か、気になるところですが、、、

「天草の乱が鎮圧されてから約八ヶ月後、マカオのマノエル・ディアス司祭がイエズス総長にあてた書簡より。
《有馬のキリシタンはキリシタンであるが為に殿から受ける暴虐に耐え切れず、十八歳の青年を長に選んで領主に反乱を起こしました。その青年は昔ローマへ行った四人の日本人の一人ドン・ミゲールの息子であると言われています。彼らは城塞のようなものを造ってそこに立てこもりました》」

つまり千々石ミゲルの息子が天草四郎時貞だったとイエズス会に報告しています。
千々石ミゲルの棄教のことは当然イエズス会は詳細を把握しているはずなので、間違えてるということは無いと思います。
イエズス会を退会し、裏切り者の烙印を押された千々石ミゲルの息子が、天草四郎。この落差を、「マルガリータ」はしっかり埋めきったと思います。
次の作品をぜひ期待したい。

「龍馬伝」でも、耶蘇教(耶蘇会)の話が出てきています。
耶蘇会とはイエズス会のことです。
イエズス会は、広島には村野藤吾設計の世界平和大聖堂があります。
安土桃山時代の日本で切支丹があれだけ広まったのは、貿易による利益だけではなく、イエズス会の布教の情熱と清貧さにあったと思います。
イエズス会は、バスク地方の狂信的な傷痍軍人が始めた教団で、司馬遼太郎の「街道をゆく〈22〉南蛮のみち 1」がかなり詳しく書いています。

カソリックの征服や聖戦、殉教の感覚は、なかなかわかりづらい感覚だと思います。
現代でも、911同時多発テロや、アフガンへの報復、イラク戦争など、キリスト教徒とユダヤ教徒、イスラム教徒の終りなき争いは、日本人には無い感覚だと思います。

塩野七生さんの「絵で見る十字軍物語」が面白いです。
これから十字軍の物語を書いていくようなので、その序論として、ギュスターブ・ドレの絵に解説をつける形で全体像を描いています。

第一回十字軍が始まったのが1096年。平清盛のお父さんが生まれた年です。
このころは、地球温暖化が激しかった時期で、モンゴルが世界征服に着手する100年前です。
第十会十字軍が終わったのが1291年なので200年間も征服事業を行ったわけで、これが、レコンキスタ終了後(1492年)のコロンブスの中南米発見と征服、そして世界征服という流れになっていき、日本にイエズス会到着が1549年。
天正少年使節がローマ法王に謁見したのが1585年。島原の乱が1637年。
千々石ミゲル達が、懸命にさからったのは、十字軍から540年の巨大な歴史の歯車だったわけです。

坂本龍馬

坂本龍馬が話題にもならないくらいお茶の間に浸透した感じもします。
福山雅治と坂本龍馬というと、背が高い事と、なんとなく好きな人(ファン層はまるで違いますが)が多いという二点以外は共通点はないと思いますが、最近はぎこちなさもとれ、安心して見れるようになってきています。

坂本龍馬は、特別な能力があった人ですが、それが個人の能力だけでもないと思います。
勝海舟とは、合理性という点に非常に共通した性質がありました。
ふたりとも、元々武士の家ではないのです。
勝海舟のひいおじいさんは金融で儲けて、おじいさんが旗本の株を買いました。
坂本家は才谷屋という質屋(金融業です)で儲けて、郷士の株を買いました。
どちらも、商業の才がある家に生まれ、育ったのです。

先祖代々武士の家というと、鎌倉時代まで遡れる人が多いと思います。
元々は東国を開拓した一族が農地を守るために武装をしたのが武士の始まりですが、600年ほどの間に、約束事が厳格に定まり、江戸時代は、今でいうと公務員のような文官として働くようになりました。そういう600年もガチガチの公務員集団の中に、いきなり(サラ金の)営業マンが飛び込んだわけですから、その時点で発送が違って当たり前だったわけです。

商人文化と東国の武士の文化は、歴史上なんども激突していますが、江戸時代をつくった関ヶ原の合戦もどういう側面がありました。
豊臣家の遺臣のうち、尾張時代の連中は野武士上がりの武闘派が多く、中世懐古主義者だった徳川家康と思想が近く、当時世話になった北政所を慕っていました。
近江(長浜)以降の連中は、浅井家の遺臣も多く、浅井家の姫君である淀の方を慕っていました。近江は琵琶湖の海運が盛んで、商業が極端に発達した地域でした。
東西の戦いは、外国貿易で利を得た商業主義西国と、農業をベースに開拓の魂を大切にする東国の戦いだったわけです。
勝負は、中世懐古主義者が勝ったので、江戸時代はなにかと堅苦しく、商売は制限された時代となったのです。ほんの短い織豊時代とはエライ違いです。
そうした江戸時代も、農業生産が限界を迎え、石見銀山も尽きた後は、米をとるか経済をとるかという政策の選択を突きつけられたのです。

鎖国を守るという主張が、倒幕の原動力になりましたが、勝と坂本の根本的な政策は、イデオロギーではなく、商業中心という政策でした。
商業と言うベースの上に、国防を乗っけようと言う政策です。

なぜまんじゅう屋に理解できるのに、武士には理解出来ないのか?それが、龍馬伝の背景にあるストーリーの一つかもしれません。
武士はもともと農民だから・・・というのが答えでしょうね。
農地を外敵から守ることを、ずーっとやってきた人たちです。
土佐の郷士は、長宗我部の遺臣です。上士は掛川からやってきた山内家。
古き良き四国の中世を懐かしむ武市さんたちは、敵と交渉するなどという感覚はまるで理解できなかったのでしょう。

あの時代は、領土を守ると言う強迫観念が、閉鎖された時代に熟成され、朱子学で染められたことで、一気に爆発したのでしょう。
龍馬とそれ以外の志士の意識の違いがこれからの見所ですね。

いわゆる南方系とインダス文明

日本は昔は海の底だったので、色々な時代に色々な所からやってきたのが、僕たちの先祖となります。
縄文人とDNAが100%一致した人たちが住む村がシベリアにある(アイヌは90%一致、本土の人は70%一致)ことから、ユーラシア大陸北部のマンモスハンターが縄文人だったといわれています。
問題はその後のルーツです。

縄文人が活躍した後に、水稲作農民が大量に移住してきて弥生時代が始まったというのがこれまでの認識でしたが、どうやらその中間があるようです。

中国で鉄が生産されるよりも前に、日本の鉄が発見されています。
インドで作られた鉄だそうです。
縄文時代の狩猟採取が稲作にいきなり変わったような記述の教科書で勉強しましたが、その間に焼畑農業など畑作もあったようです。
そうした鉄を持ち込んだり、焼畑などで畑作を行っていた集団が大量に移住してきた時代が、水田で稲作をやるはるか前にあったようです。
もののけ姫の世界ですね。

水田で稲作をやる集団は、中国南部の呉や越が滅亡したときの移民(遺民)と言われています。タイ、ベトナム系なので漢民族ではありません。
鉄や焼畑を持ってきた人たちは、古代インドの種族のようです。
大野晋さんがいくつも書物を書いていますが、現在スリランカに多く住む古代インドの言語や生活習慣は、現在の日本とも非常に近いということです。(強調しておきますが、現在のいわゆるインド人(アーリア系)は、縁もゆかりもありません。)
ドラヴィダ語の一種のタミル語と日本語は主要な7割程度は意味や用法が一致するということのようです。
正月の習慣、とんど焼き、57577のポエムなど多くの生活習慣や文化も一致します。
もちろん日本と古代インドだけでなく、朝鮮半島の沿岸部もそうした近似する文化が残っているようです。
インダス文明をつくった水の民が、北方の野蛮な騎馬民族であるアーリア人に侵略され、南に移住し、現在はスリランカに多く住んでいると言う状況です。

お盆休みに、図書館でNHKのインダス文明のビデオを借りてきて見ましたが、言われてみると非常に近いものはあります。
黄河文明やメソポタミア文明と違って、絶対的王権のようなものは無く、武器や戦乱の後も少なく、平和で協調した商人中心の文化だったようです。
そうした海の民が、アジアの沿岸部に拠点を作り、商業や交易を司っていたと言う状況だったことはイメージ可能です。
それが日本までやってきて、鉄が豊富な出雲や吉備に大きな国をつくったと推測されます。

空海は中国に渡っていきなり現地の人とコミュニケーションできたと言う話で、それが天才だから・・・と言う話になっています。
しかし、空海の実家の佐伯一族は、讃岐、安芸(佐伯郡)、豊後(佐伯市)という瀬戸内の要所を抑える海の民です。
当時の海洋貿易の標準語であったドラヴィダ語(日本語と7割一致します)を扱えた・・・ということかもしれません。
僕の故郷の川尻には野呂山と言う大きな山があります。
宮島の弥山の兄貴分のような山で、空海が訪れたという話で、現在も弘法寺と言う寺があります。ここの寺を守ってきたのは、川尻の民(半農半漁)ではなく隣の安浦の民で、林業や古くは焼畑を営む集落の人たちだったようです。

いわゆる北方系のルーツはウラルアルタイ地方のモンゴロイドで、蒙古斑が特徴です。最近はモンゴルなどウラルアルタイ語族の力士が活躍していますが、ブルガリア人も元は同じウラルアルタイ系です。
南方系は椰子の実といっしょにカヌーに乗ってやってきたポリネシア系と言うイメージが強いですが、もう少し遡るとインダス文明にまでいきつくようです。
四大文明の中では一番印象が薄かったインダス文明ですが、まさかつながっているとは夢にも思いませんでした。

ヨン様→→仁徳天皇

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総合で見逃した天地人を録画しようとBSにしたら、ヨン様のドラマをやっていました。
歴史ドラマと言うよりも、日曜日の朝早い時間にやってる仮面ライダー系のアクションドラマと言った感じ。
それはそれとして、先日面白い本を読みました。

広開土王(ヨン様が演じた高句麗の王様です)は、晩年日本にやってきて、淡路島に拠点を構えて日本のリーダーとなって、後に仁徳天皇と呼ばれるようになった・・・という話です。
小林惠子さんの書いた「広開土王と「倭の五王」―讃・珍・済・興・武の驚くべき正体」です。
昔、「本当は怖ろしい万葉集」を書いて話題になった人といえば、覚えてらっしゃる方もいるかもしれません。

元々古代北東アジア史(いわゆる騎馬民族と漢族のもみあってたあたりです)が専門なのですが、北東アジアのいわゆる騎馬民族が活発に活動していた時代、中国だけでなく朝鮮半島や日本まで影響力を及ぼしていて、その大規模な権力闘争の栄枯盛衰に、朝鮮半島や日本列島もかなり影響を受けていたと言うものです。
しかしこの時代は証拠となる文物の出土も限定されていますし、文書も限られたものしか残っていないのです。
それで、中国から朝鮮、日本の古文書を小林さん独特の解析によって、解き明かしていくのです。
驚くことに、古墳時代に起こった出来事が、一年の季節まで特定されて語られていくのです。
当時、中国も朝鮮、日本も、同じ干支(庚午とか甲子とか60年周期のやつです)だったので、確かに特定はできます。
おまけに、皇紀元年は100年ほどサバ読まれてると言う話はありましたが、それも120年だそうです。60年周期二まわり分だそうで。
驚きの連続で、刺激が強すぎて半分は当たってても、残りはそれはちょっと????という感じですが、基本的な筋は外れていないと思います。
もちろんアンチ小林派の人は多いですね。古代史が180度ひっくり返りますので。
基本的には江上波夫さん系列の人ですが、もっと過激な騎馬民族原理主義者と言う感じ。それも軸足を北東アジアに置いて日本の古代を語ってるので・・・。
小林さんの本一冊と、他の同時代のことを書いた本2冊程度のバランスが丁度いいです。