台風15号

台風15号が近づいてくるようです。
発生してしばらくはスピードも遅かったようですが、31日(土)の上陸に向けてスピードを上げてくるようです。
気象庁の予想では、長崎に上陸した後に周防大島と本土の間を通過して呉直撃、その後日本海?コースです。
国際気象海洋株式会社の予想もほぼ同じ。
米軍の予想は鹿児島に上陸して和歌山、千葉をかすめた後、太平洋に抜けるコース。
似て非なる予想が出るのは、その時期の日本近辺の気圧配置にあります。
朝鮮半島〜日本海に高気圧が有り、太平洋小笠原にも高気圧がある。
その中間の日本列島に低気圧の川が流れている感じ。
そこを15号は通過するのでしょう。
広島が台風直撃するのはおよそ10年に1度あるかないか。
しかしその時は沿岸部は激しく被害を受けます。
明日になれば、コースの予想も変わってくると思うので要注意です。

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暮しの手帖

[amazon_image id=”4766001036″ link=”true” target=”_blank” size=”medium” ]戦争中の暮しの記録―保存版[/amazon_image]

暮しの手帖社が、「戦争中の暮しの記録」と言う本を出しています。
60年代に暮しの手帖の別冊として出版された後に、単行本として刊行され現在まで続いています。
おそらく出版社が続く限り、版を重ねて出版され続けるのではないかと思います。
花森さんは、戦時中には大政翼賛会で国民に対する宣伝を行う仕事についていて、「欲しがりません勝つまでは」の名コピーにも関わっている人。
あの不幸な戦争については、想像以上の深い思いがあると思います。
その思いが形になったものの一つがこの本だと思います。

僕達が戦争というと、戦場での戦いや、外交や戦略、様々な運動のように、マクロの視点で捉えたり、そういう動きに流されたりすることが多い。政治や外交のフィールドで戦争や平和を語るのが我々庶民の立脚点として正しいのかと常々疑問に思っています。
しかし、この本は、戦時下の様々な人が、自分の言葉や文字でその苦難に満ちた生活を等身大に語っているもの。
いかなる環境であっても、家族や個人がいかなる境遇であっても、力強く、時には泣きながら暮らしは成り立っているということに改めて感じるものはあります。
幸不幸は糾える縄のごとく、非永続性、非連続性のものであると同時に、そもそもが相対的なもの。
現在の自らが置かれている環境や状況の中で精一杯生きること。
それが暮らしの原点であると思います。
明日は、我が国が最後に戦争を終えた日から丁度68年。
この本はまだ読みかけなので、明日はこの本の一人ひとりの生活と向き合う一日としたいと思っています。

梅雨

梅雨が終わってしばらく夏らしい乾いた暑さの日が続いていましたが、湿った空気が悪さをして、日本海沿岸に記録的な豪雨を巻き起こしているようです。
この梅雨という厄介なものは他の国では以外とないようで、アフリカや欧州、アメリカ大陸でも無い。インドは雨季や乾季はありますが梅雨ではない。東南アジアから日本、朝鮮半島南部までの現象のようです。
この梅雨がもたらしたものは多く、緑豊かな自然環境と同時に、自然に感謝し畏れ、敬う意識も醸成しているように思います。
日本人の特性のうち、調和する能力は、気候や自然環境と農作業の長い歴史の影響がおおいと思います。
梅雨によって育てられてることに先ずは感謝したいと思って毎年暮らしています。

この梅雨がなぜ起きるのか?明確なヒントはなかったのですが、あるときヒマラヤ山脈がその原因との話をきき、なるほどと腑に落ちました。
東から西に大気が流れる時、ヒマラヤ山脈によって北と南に気流が別れます。それぞれ対照的な特徴を持つのですが、それが再会するのが中国南部から日本にかけての地域だそうです。
そのぶつかり合いが梅雨前線ということです。
飛行機が飛ぶ原理の説明に使う翼と二つに別れる気流の図を思い出すとよくイメージできると思います。
つまりヒマラヤ山脈がなければ二股に別れることもないので、東南アジアや東アジア南部の気候はもっと平べったいものだったかもしれません。
ひょっとしたらパキスタンやイラン沿岸部のような気候であった可能性もあるのか?

実は、アジア人の祖先も同じで、アフリカを出発した人類は、ヒマラヤ山脈の北と南に別れました。
北に行った人たちは一重まぶたのしょうゆ顔で、モンゴルで遊牧をしたり中国で覇権争いをしたりしていました。
南に下った人たちは、今は水没しているインドネシアの大陸でのんびり暮らしてたと思います。その末裔はインドネシアだけでなくタイやポリネシアに住んでいます。二重のソース顔。
その両者が合流したのも中国南部から日本、朝鮮半島南部あたりです。
この東アジア南部という地域の魅力は、ヒマラヤを始点とするの分かれ道の合流点という地理的条件によって成り立っている。
そう思うと、梅雨が更に愛おしく思えてきます。

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お伊勢さんとお稲荷さん

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あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

年末は、愛知県豊川に里帰りする途中、伊勢・志摩地方に立ち寄りました。
一番の目的は、海女の里・相差で伊勢海老と鮑を食べること。結果大満足。
産地で食べるもので外れなし。海と森の豊かさと感じます。

翌日は伊勢神宮の外宮にお参り。
一昨年に、外宮と内宮がお参りしているので、今年は時間の都合もあって外宮のみにお参りしました。
内宮はアマテラスを祀る国家を代表する神宮ですが、外宮は内宮のアマテラスをお世話する衣食住の豊受大神を祀ってるので、建築を設計する人間としてはどちらかといえば外宮のほうがしっくり来ます。
今年は式年遷宮の年なので、今の社殿を見るのも最後です。
茅葺きの屋根は、緑の苔や、朽ちていたりするなど、20年の痕跡が残っています。

豊川に行った後、妻の実家の近くの豊川稲荷にお参りしてきました。
年末なので、お寺もテキ屋も準備を着々としてる感じで、非常にスムーズにお参りできました。
豊川稲荷は他のお稲荷さんと違って純然たるお寺ですから、線香の香りや聞こえてくるお経など、どことなく新鮮です。

お伊勢さんもお稲荷さんも、江戸時代に爆発的に参拝がブームとなったようで、こうした神社仏閣にお参りするのは江戸期の大衆文化を思い返す良いきっかけになります。
伊勢神宮は元々天皇家の神社だったので、公家ですら参拝は禁じられていたようです。
古墳にルーツを持つ(?)神社は、古代の権力者からの権限移譲の儀式のものだったようですから、天皇以外の者が、アマテラスから権限を移譲することがあってはならないということだったのではないかと、ふと想像したりします。
そんな古代の歴史がほとんど廃れた江戸時代、東海道中膝栗毛の弥次喜多がお伊勢参りの最も有名なエピソードですので、そういう愉快な旅行が日本中で繰り広げられていたと想像すると、伊勢界隈のイメージも膨らんできます。

お稲荷さんは、広島にもとうかさんと呼ばれ、祭りでも人気の稲荷大明神がありますが、やはりこれも江戸の稲荷信仰が有名です。
江戸の武家はそれぞれの家にお稲荷さんを祀っていましたが、一年の初午の日には、庭を公開し、そのお稲荷さんの社を町人が順にお参りして歩いたそうです。
英国の田園地帯の邸宅のオープンガーデンみたいなものでしょうか。
その中でも、大岡越前の屋敷が人気だったそうです。立身出世と防犯にご利益があったとか。
そういえば、豊川稲荷が経営する豊川高校が駅伝で大活躍したとして、去年は話題になりました。
信用金庫の強盗事件、今年のB-1グランプリの開催と共に、地元のオバチャン達の三大話題だったそうです。