森の芸術祭 晴れの国・岡山 その1

先週末、「森の芸術祭 晴れの国・岡山」に行ってきました。
美作地方の12市町村で開催されているアートイベントで、42のグループによる作品が各所で展示されています。
21世紀美術館館長の長谷川祐子さんがアートディレクターで、県知事がトップの実行委員会で組織されています。
古くからこの地方は、姫路と出雲をつなぐ出雲街道や、岡山と川でつながる高瀬舟など、交通の要衝で賑わっていたようです。

週末に予約が必要なのは新見市のカルスト大地にある井倉洞をつかった作品で、ここに8時45分から予約できたので、このエリアからスタートしました。
ICの途中にある「まなびの森 新見図書館」のマイケル・リンの壁画を観て、「井倉洞」に到着。
ヘルメットとリュックサックを背負って、場所に応じた音と光と共に狭くて長い鍾乳洞を巡るという作品でした。
谷に降り込んだ雨が染み込んで鍾乳洞の中に滝をつくり、染み込みきれない水が滝を作って川に流れ込むという興味深い鍾乳洞体験となりました。

次に近くにある蜷川実花さんの作品となった「満奇洞」へ。
八つ墓村の洞窟のロケで使われているようです。
写真では伝わらないと思いますが、鍾乳洞の持つ長い時間をかけて自然がつくりだした造形を、私たちが持つ生や、あの世へのイメージとうまく重なって、今後忘れられないだろう強い空間となっています。今回の芸術祭で一番インパクトがあった作品でした。

近くにある「ふれあいセンター満奇」杉浦慶侘さんの写真。
薄いレースで囲まれた空間に大きな黒く見える写真が6点。
真っ黒な背景に少し木の葉が描かれてるのかと思っていると、目が慣れていって、時間を追うごとに黒かった部分から森のディティールが浮かび上がってくる。森の奥深さ、迷ってしまって下手すると帰ってこれないかも。。。と思って遊んでいた子供の頃を思い出しました。とても印象深い作品です。他の作品を観てみたいと思いました。

勝山の保存されている街並みに向かいました。ここには妹島和世さんの椅子が町のあちこちに配置されて、表情を与えています。
この街並みの北には御前酒の蔵があって美味しい食事もいただきました。南側には「ひのき草木染織工房」があって、この街ののれんを長くつくってきたそうです。街並みの空き家になっている家も綺麗に整えられてのれんがかかっていることも印象的でした。

次は蒜山の「GREENable HIRUZEN」ここは4人の作家の作品があります。建物は隈研吾さん設計。
2階の東勝吉さんがよかったです。83歳から絵を描き始めた木こりをリタイヤした方です。他の作品は湯布院に行けばどこかで観れそうです。

夕方に近づいた頃に「奥津峡」に到着。紅葉のために道路を規制していましたが、森はまだ緑のまま。融通が効かない人間社会。
川に沿った綺麗な道をすすんで橋を渡ったところに作品はありました。音と金属の作品。

この日最後が「奥津振興センター」のジェンチョン・リョウさんの作品。三人で1ヶ月現地で製作したようで、このまま残していくそうです。遠くから見ると透けていて、好感が持てる作品です。

台湾宜蘭県のまちづくり

新型コロナウイルスが落ち着いて自由に旅行できるようになったら、パンデミック時のGWに行く予定だった台湾に行こうと思っていました。九州くらいの台湾を一回りしようと思っていたので、時計で例えると1時の宜蘭市から、時計の逆回りに台中、台南、高雄と6時の恒春、鵝鑾鼻岬まで行っていたので、残りは東海岸の花蓮、台東あたりでした。
台北IN/OUTになるので、花蓮あたりを調べていたのですが、途中で泊まる予定だった宜蘭県の羅東やその周辺に面白そうな建物やランドスケープデザインのものがいくつもあります。さらに調べていくと、40年前から県長(日本では県知事)が明確な目的とビジョンで地域を活性化させていたことを知ることができました。

県長 陳定南さん

1981年に、陳定南さんが宜蘭県長となったことから全てが始まったようです。
大規模な工場の進出をストップし、汚職を根絶し、環境を保護しつつ観光産業を発展させるというものでした。
今でもgoogle mapで民泊を検索すると、恐ろしい数の民泊がヒットしますし、サイクリングロードや温泉公演、羅東夜市、自然公園など、台北から日帰りでも楽しめる観光エリアとなっています。

宜蘭県の住民の環境意識の計測

象設計集団とFieldoffice Architects

県長に就任した陳さんは、当時早稲田の博士課程にいた郭中端さんの論文を読んで、県の計画に参加するように依頼しますが、当時は学生であったために、兄弟子にもあたる象設計集団を推薦します。象設計集団はそこから今に至るまで、多くの建築や公園をつくっています。造園の設計は高野ランドスケープが現地法人を作って現在も台湾全土で活動しています。
Fieldofficeの黃聲遠さんは、1994年から羅東県で仕事を始めます。小さな道の再生から公共施設まで、現在も毎年のように公共建築が竣工しています。日本での作品集(LIVING In PLACE)を観て2016年に宜蘭市に行ったのが台湾に継続的にいくようになったきっかけでした。

台湾はどの町に行っても、人は親しみやすくて親切で、日本統治時代の建築を大切に活用している点は共通しています。多くの都市では、外国人建築家に大きな建築を作ってもらうケースが非常に多いです。もちろん都市の環境や文化レベルは大きく向上して、観光資源にもなることですが、ここ宜蘭県では多くの建築が地元に根を下ろしている象設計集団とFieldofficeが作り続けているといってもいい状況です。これは県長やその政党が替わっても続いていることなので、完全に定着している思われます。
表現の手法も、継続性がありますし、大切にしていることも一貫しているので、地元の人たちは、誰が設計したか?についてはそれほど気にすることなく、建築を作品としてではなく、生活と連続したものとして活用しているように思います。

陳定南さんのことは、今回調べていくなかで知ることができた人物ですが、一人の人物と、それを継承する多くの人が作り続ける地域を観にいくというのが、今回の旅のテーマとなりました。

羅東県(宜蘭市をのぞく)の建築の一部。今回訪問したものは太文字
1981年 陳定南宜蘭県長就任
1994年 冬山河親水公園 <象設計集団+高野ランドスケープ>
1997年 宜蘭縣政大樓 <象設計集団>
2005年 礁溪湯圍溝公園 <象設計集団>
2005年 礁溪生活學習館 <Fieldoffice>
2006年 陳定南没
2011年 礁溪溫泉公園 <象設計集団>
2014年 羅東文化工場 <Fieldoffice>
2016年 冬山河生態綠舟 <象設計集団+高野ランドスケープ>
2018年 壮囲沙丘旅遊服務園区 <Fieldoffice>
2021年 礁溪轉運站旅人廊道 <Fieldoffice>
2022年 礁溪國小運動場及地下停車場 <Fieldoffice>
2023年 宜蘭市バスターミナル <Fieldoffice>

サグラダファミリアの完成

サグラダファミリアは、いつ完成するのか?と、何十年も語られてきましたが、2026年に敷地内の塔は全て完成する予定とされています。が教会の完成ではないようです。

夏に国立近代美術館のガウディ展で、計画の経緯や模型を見て、その理由がようやくわかりました。

ガウディは、サグラダファミリアの二代目の建築家で、ガウディが就任した時に計画を大きく変更します。
向かって右にある生誕の門を先行して建設していく過程で、その規模がどんどん大きくなって、教会全体の規模も大きくなる。
その結果、正面の入口は敷地内に収まったが、そこに入るための階段は隣の敷地にはみ出してしまう計画となっています。

サグラダファミリアの完成模型。水色の線が道路。道路をまたぐ階段から正面入口にアプローチする計画となっている。

現在の航空写真(google)。水色の線が道路、ピンクの線が正面入口に至る階段

隣の敷地には、ブロック一杯に建物が建ち並んでいて、当然それぞれに権利者や住民がいます。
ここを立ち退いてもらわないと、正面の入口や、そこに至る階段、アプローチの建設ができません。

階段は道路をまたぐ計画ですが、車が通過できる高さだと、階段の位置が高すぎるので、道路は封鎖するしかないように思えます。

サグラダファミリアの隣の一等地を買い上げて立ち退いてもらうという事が財団にできるのかわかりませんが、この問題を2019年より着手してるようですので、いずれ進展はあるのかもしれません。
両隣と同じように、正面入口側のブロックも公園とするのが理想だと思いますが、時間はかかりそうですから、側面から出入する期間が長く続きそうです。

藤原新也

先月福岡の喫茶店にあったチラシで小倉の藤原新也展を知って、写真展を観る前に藤原新也が過ごした門司に行きたいと思った。港町には可能であれば船でアプローチしたい。
朝早くから観光客で賑わう下関の唐戸から船で門司に上陸。洋館の残るエリアから離れると閑散とした商店街が広がり、隙間から山裾に店や家屋が続いている。

藤原新也の生家跡は特に調べる事なく、彼が暮らした痕跡の発見もそれほど期待せず、ただ門司の今の街を見て回ろうと思ってた。

通りの隙間から綺麗な石垣の上に三階建の木造料亭建築が見える。食事は済ましてたので通り過ぎようとすると、階段から女性グループが降りてきた。見学できるなら、、、と思って入ってみた。

どちらから?と親切なスタッフ。

広島からですが、藤原新也展を観る前に門司に来ましたと伝えると、生家はここの隣なんです。と。え!

この料亭建築「三宜楼」は、取り壊しの危機も乗り越えて、地元の人たちが守って管理をしてるとのこと。いい建築が残るのは、建築を大切に思って行動する人たちがいてこそ。

生家は基礎だけ残ってる状態で思ったより小さく感じる。生家の旅館が破産した翌年に門司市は小倉などと合併して北九州市となっている。昭和35年、36年のこと。町は大きな曲がり角だったのだろう。

単一の役割で急速に発展した都市は、その条件が失われると弱い。しかし、かつての繁栄は建築にその痕跡が残る。そうした建築を大切にする事は町の歴史や文化を大切にする事であり、地域のコミュニティや尊厳を大切にすることでもある。門司の人たちと建築の気持ちのよい関係を嬉しく感じる。隣の旅館も基礎だけでなく、建物が残っていれば、、、と思う。

藤原新也展は小倉城の市立美術館分館と図書館併設の文学館で開催。インド放浪、チベット放浪、逍遥游記、全東洋街道、、、、東北の震災、香港民主化運動、緊急事態宣言、小保方さん、AKB、寂聴さん、沖ノ島、、

二十歳の頃に読んだ作品やその後のもの、知らなかった作品まで、藤原新也が一貫して表現したものがよくわかる企画で、人や命を問いかける作品が心に突き刺さったし、その原点が門司の街や生活にあったんだろうなと感じられました。寂聴さんやお父さんとのエピソードも藤原新也らしくて。

二十歳過ぎて藤原新也を知って、写真と言葉から、人とは何か?命とは?という問いかけとメッセージはその後の人生の骨格の一部を間違いなく構成していると思う。
大学を卒業して少し時間が取れたので、インドに行きたいと思ったが予算が足りなさそう。それで中国ならインドとは違うエネルギーを感じられるのではないかと思って旅に出た。
しかし、中国だけではどうやら予算が余ること、確かに人のエネルギーは強いものの、共産主義的な社会の欺瞞性が気になって、シルクロードをそのまま進むことにした。「全東洋街道」と逆に中国からギリシャまで。カメラも持たず、予定になかった知らない国を旅することで、多くのことを学ぶことができた。

藤原新也は今も変わらず表現をし続けていることが確認できて、私たちに人や命について考えるきっかけを与えてくれていることが嬉しい。