図書館と本屋の融合

今年のGWは、九州の北西部をぐるっと回ろうということで、まずは武雄にやってきました。
温泉の後、武雄市図書館に寄ってみました。
カルチャーコンビニエンスクラブが関わって改装した図書館として話題になったものです。

エントランスを入る前から、商業施設の構えができていて、図書館に向かう高揚感とはまるで違うものを感じます。

スターバックスと雑誌売場、座り読みできるカフェ。図書コーナーは奥に。
まさに、図書館と本屋の融合。
利用者の年齢層や、テンションも図書館とはまるで違います。広島で例えるならLECTの本売場の様相です。

全国の図書館がこうなるべきとは全く思いませんが、役所の理屈で制約をはめてた世界に、一つ風穴を空けたのではないかと思います。
隣接する児童図書館は、もっと自然な形で図書館とカフェが融合していました。
年間800万円の赤字とか。
気持ちのいい施設を税金で整備するわけですので、負担増は仕方がない。
民と官の中間に、面白いことができる余地があるなら、公共施設も、今後は躊躇すること無く、様々な民間の施設と融合すれば面白いと思います。
ただ、その負担をどのように、誰が?という課題は残ります。
民間の商業施設なら消費者が負担。
公共施設なら、一部利用者残りは税金。
今回のようなケースでは、増税するのがベターなのか?

千畳閣が望むもの

厳島神社とその周囲の建築の配置には、ルネッサンスの影響があるという説があります。
配置については、神社の桟橋を先端と中心として、鳥居と右の千畳閣、左の大願寺が45度ずれて配置されているというもの。
厳島神社も、鳥居に対するパースペクティブを強調するために、奥から鳥居に向かって柱の間隔を狭く、天井高も低く計画されているというものです。
鳥の目でランドスケープを計画する概念が、ポルトガルの宣教師や一緒についてきた技術者などから伝わったのでしょう。

昨日、九州に住む友人の大工さんと一緒に千畳閣に行ったので、そのあたりを確かめてみました。
千畳閣は、丘の上から鳥居に向かって棟のラインを合わせて建っていますが、建物の中心は、あくまで円の中心に向かう神社の方角。
鳥居に向かっては、小さな丘がある上にアプローチの側なので、鳥居に向かう視線は目的外だろう。

では、神社の方に向かっては、建物の水平に回る長押が切り取られ、柱も2本途中で切り取られています。
その軸が向かう先に、宗像三女神を祀る厳島神社の本殿があるのかと思ったけど、違います。
本殿の背後の小さな森を、軸の中心に配置しているのです。

厳島神社の本殿の背後には、観音像があり、観音信仰をしていた平清盛は、宗像三女神にお参りすると同時に、その背後の観音様をお参りする構造にしたという説もある。
その観音像が、その中心にあるのか?
と思って千畳閣にいた神職の方に森について聞いてみると、、、
自分たちも立ち入ったことがないとのこと。
観音像については、かつてそこにあったという言い伝えはあったが、確かなことは自分はわからないとのこと。

神社の背後の森については、ますます興味が出てきました。

神社の系譜 なぜそこにあるのか (光文社新書)

近代日本建築にひそむ西欧手法の謎―「キリシタン建築」論・序説

興居台南の設計者を探す その2

当時の建物がどんな名称で、建築主が誰なのか?も興味あるところ。
「1936年 大日本職業別明細図 第448号 台南市」
という地図に、当時の建物が掲載されていました。

徳泰商行という名称だったようです。

この会社がどんな会社なのか?
が気になるところですが、Googleでは出てこない。

そこで、先の「臺灣研究古籍資料庫」に役に立ちそうな資料があるか検索。

「會社銀行商工業者名鑑. 昭和十年版」
ここにありました。

株式
徳泰商行
本町四ノ百九四
電話 九二四
許◯然

台湾人の経営する証券会社のオフィスだったようですね。

1932年に竣工した5階建の林百貨の次に台南で高層の興居台南。
その後、1936年竣工の台南駅、1937年旧日本勧業銀行台南支店があります。
台南という町に、新しい世代のRCの建築が建ち始める時期なので、この建物を設計したのは、RCの経験のあるそれなりの人物だと思われます。

興居台南の設計者を探す

興居台南の設計者が不明とのこと。
オーナーによると、東京帝大出身、1934年〜35年竣工とのこと。

面白そうなので、調べてみることにした。
先ず、東京帝大建築学科の卒業生のリストがあった。明治期大正期
辰野金吾先生の時代は一学年4人か。有名な方の名前、スーパーゼネコンの創業者、大手設計事務所の創業者の名前もある。
名前を検索すると、ある程度の卒業後の仕事がヒットする。台湾総督府に就職するなど関係ありそうな人物は2年に1人程度はいるようだ。
限定的ですが、卒業設計もデジタル化して検索できるようになっているものもあります。産業技術史資料データーベース。ここで”東京帝國大學工學部建築學科卒業計畫圖+台湾”で検索すると、9名ヒット。明治期の一部の時期のみと思われます。

野村一郎:1895年卒。台湾総督府営繕課長として活動した人物。
森山松之助:1895年卒。大学卒業後、大学院に進み、翌年第一銀行建築事務所に勤務。1910年から1919年まで台湾総督府土木技師として、台南州庁(現・台南市政府)などを設計。帰国後、東京に森山事務所を設立し、わが国における民間建築家の先駆となる。時期的に別人。
中榮徹郎:1897年卒。1912年から18年まで台湾総督府技師土木局営繕課長を勤める。それ以前には名古屋高等工業学校講師を嘱託。退官の後は建築事務所を開設した。
井出薫:1906年卒。台湾営繕課長を勤める。後に出てくる、臺灣建築會の会長。台湾の建築サロンの中心人物と思われます。
栗山俊一:1909年卒。台湾で活躍。業歴は台湾郵便局(1929)など。臺灣建築會の副会長。
坂本登:1912年卒。文部技師、朝鮮総督府技師、台湾総督府技師として活動した。時期的に微妙。

台湾研究古書籍資料庫というサイトが有ります。
台湾総督府などに残された統治時代の書籍をpdfにして公開しています。
興味深い資料の宝庫です。
当時の日本や台湾の状況が非常によく分かる資料ばかり。面白いです。

台湾の建築実務者によってつくられた臺灣建築會が、二ヶ月に1度、台湾建築会誌という会報を出しています。


ある回の目次は、、、
卷首
防空に關する講演 門脇幹衞
水平荷重を受くる特殊ラーメンと其解法 田中大作
昭和八年度に臺灣の官廳で施工された建築 阪東一郎
第六囘總會見學會之記
臺建ゴシツプ
編輯室から
建築雜報
會報

となっています。
台建ゴシップというのは、編集部が会員数人をピックアップして、ユーモアたっぷりにいじるコーナーで、その当時の仕事や人間関係などがよくわかります。
日本での事例紹介や、時節柄注目すべき技術情報や、合同見学会のレポート、日本より訪台した文化人による文章など、今読んでも楽しめる内容です。

この会の会長が、総督府営繕課長だった井出薫さん。総督官房営繕課長が、建築職では台湾一のポストと思われます。
台北に現在も残る建築を多数設計していますし、興居台南が建った時期もそれらの仕事をしているので、ちょっとこの方ではないと思われます。

副会長だった栗山俊一さんは、1919年から1931年まで総督府営繕課技師として官職についていましたが、その後民間で活動しているようです。
現存している1928年竣工の台北郵便局(現・台北郵局)や1931年竣工の台北放送局(現・二二八紀念館)を設計したエースだったようです。
又、1935年に発行された、臺湾文化史說という本では、台南の「安平城址と赤嵌樓に就て / 栗山俊一」という文を書いています。
荒れ放題だった、オランダに縁のある古城2つを保存するきっかけとなった行動です。ここでは、台湾総督府技師という肩書ですが。
台北での総督府の仕事の後に、台南でこのビルの設計・監理をしつつ、古城の調査や研究に従事していたということは十分ありえますが、いかがでしょうか。