台湾総督府は、台湾の鉄道や主要港湾の整備を行っていき、高雄は貿易港として急成長していきました。
市の中心は塩埕区に移り、1938年には現在は高雄市立歴史博物館として活用されている旧高雄市役所が建設されます。南国らしい空間を感じるペパーミントグリーンが美しい建築です。
塩埕区の旧高雄駅は引込線が残された公園となり、煉瓦造の倉庫群がアートをテーマにした施設、駁二藝術特區大義倉庫群として観光客で賑わうエリアになっています。旗津に渡る港につながるエリアなので、旗津に渡るための門前町という位置づけでしょう。
翌日の早朝に、自転車でひと回りしたが、それでちょうど良かった。
建築の学生の設計展のポスターがあったが、日程が合わず残念。
台湾
パイワン族の村 三地門郷
霧台からバスに乗って、中腹にある三地門で下車。
ここは、日本統治時代に3つの村を合併した人工的に区画された集落です。
長い吊橋もかかってる川の平地側には、台湾原住民文化園区があります。
集落には土産物屋で売るための伝統的な服や小物をつくる工房や、とんぼ玉をつくる工房、ダンスが見れるスタジオ、飲食店などがあります。
観光バスも来るようなので、大きな駐車場のあるレストランもありますし、資料館もありました。
霧台から降りてくると、賑やかな町にやってきたという感じがします。
資料館や、おばさん二人がやってる工房を覗いてみたり、とんぼ玉の工房を覗いてみたりしましたが、お昼なので空振りという感じ。
定休日の看板があった蜻蜓雅築珠芸工作室を覗いてみると、オーナーの施秀菊さんが手招きしてくれたので入ってみました。
パイワン族の商品がいろいろある中で、ここのもののデザインが一番洗練されているようです。
台湾でヒットした恒春が舞台の「海角七号 君想う、国境の南」という映画でも、ここのとんぼ玉ジュエリーが使われたとのこと。
そこから下ると、山川琉璃吊橋があります。三地門郷から台湾原住民族文化園区を隔てる川に、全長約260m、高さ約45mの吊橋をかけています。
景色もよく、風がきもちよかった。
台湾原住民族文化園区
台湾原住民族文化園区は、台湾の16原住民族の資料展示や建築、ダンスが見れる広い観光施設です。
原住民族の地区に入れない時期は、こうした観光施設で観光用の芸能を見せるという状況が続いたと思いますが、近年は文化的な扱いも変わってきてるようです。テレビでも、原住民族チャンネルもあって、音楽やドキュメンタリーもやってました。
平日のせいか、1日2回のダンス公演は観客は4組くらい。各民族の住宅を移築しているエリアもありますが、かなり傷んでて。いろいろギャップのある施設のようです。
ルカイ族の村 霧台
霧台に向かうバスは、一日3往復。7:45,9:30,14:30発。帰りは9:45,11:30,16:30。小さな村なので、7:45発に乗って、11:30発で三地門村で降りることにする。
バスの中で入山名簿に記入。名前とパスポートNo.
乗客は4人。みんな日本人でした。
平地最後の三地門のバスターミナルでトイレ休憩があって、そこから急峻な山に入っていきます。高知県の四国山地のような雰囲気。
土砂崩れ多数。川はほぼ枯れてる状況ですが、豪雨で荒れ狂った痕跡はあります。
途中、小さな集落を通過しながら、高原の小集落霧台に到着。
公共の広場に面して集会所、小学校、資料館があります。
資料館では、装飾品、様々な祝祭の道具などが見れます。イノシシの牙などを使った頭巾や、衣装が美しい。
麓の広いエリアに住むパイワン族から別れた民族のようで、木彫や衣装の形に共通電が多数あります。
どちらも元首狩り族です。
ポリネシア地方の首狩り族は有名ですが、台湾がルーツとのこと。台湾→フィリピン→ポリネシア全域へと広がっていったようです。
日本も150年前までは首刈りの風習があったので、その共通点は興味あるところです。解雇することを首を切ると表現しますし。
建築は、薄いスレート状の石を積み重ねて壁とし、その壁から壁に木製の梁を架て、垂木を転がして、石を屋根葺材として積み重ねるというもの。屋内は地面のままだったようです。
平地のアミ族など海洋民族は、高床式の住宅だったようなので、あきらかに別の様式です。
世襲制の貴族制度があるようです。もちろん、現在は民族衣装を着て生活してる人はいないので、見た目ではわかりませんでした。
ルカイ族は誇り高き戦士という感じ。