興居台南の設計者を探す その2

当時の建物がどんな名称で、建築主が誰なのか?も興味あるところ。
「1936年 大日本職業別明細図 第448号 台南市」
という地図に、当時の建物が掲載されていました。

徳泰商行という名称だったようです。

この会社がどんな会社なのか?
が気になるところですが、Googleでは出てこない。

そこで、先の「臺灣研究古籍資料庫」に役に立ちそうな資料があるか検索。

「會社銀行商工業者名鑑. 昭和十年版」
ここにありました。

株式
徳泰商行
本町四ノ百九四
電話 九二四
許◯然

台湾人の経営する証券会社のオフィスだったようですね。

1932年に竣工した5階建の林百貨の次に台南で高層の興居台南。
その後、1936年竣工の台南駅、1937年旧日本勧業銀行台南支店があります。
台南という町に、新しい世代のRCの建築が建ち始める時期なので、この建物を設計したのは、RCの経験のあるそれなりの人物だと思われます。

興居台南の設計者を探す

興居台南の設計者が不明とのこと。
オーナーによると、東京帝大出身、1934年〜35年竣工とのこと。

面白そうなので、調べてみることにした。
先ず、東京帝大建築学科の卒業生のリストがあった。明治期大正期
辰野金吾先生の時代は一学年4人か。有名な方の名前、スーパーゼネコンの創業者、大手設計事務所の創業者の名前もある。
名前を検索すると、ある程度の卒業後の仕事がヒットする。台湾総督府に就職するなど関係ありそうな人物は2年に1人程度はいるようだ。
限定的ですが、卒業設計もデジタル化して検索できるようになっているものもあります。産業技術史資料データーベース。ここで”東京帝國大學工學部建築學科卒業計畫圖+台湾”で検索すると、9名ヒット。明治期の一部の時期のみと思われます。

野村一郎:1895年卒。台湾総督府営繕課長として活動した人物。
森山松之助:1895年卒。大学卒業後、大学院に進み、翌年第一銀行建築事務所に勤務。1910年から1919年まで台湾総督府土木技師として、台南州庁(現・台南市政府)などを設計。帰国後、東京に森山事務所を設立し、わが国における民間建築家の先駆となる。時期的に別人。
中榮徹郎:1897年卒。1912年から18年まで台湾総督府技師土木局営繕課長を勤める。それ以前には名古屋高等工業学校講師を嘱託。退官の後は建築事務所を開設した。
井出薫:1906年卒。台湾営繕課長を勤める。後に出てくる、臺灣建築會の会長。台湾の建築サロンの中心人物と思われます。
栗山俊一:1909年卒。台湾で活躍。業歴は台湾郵便局(1929)など。臺灣建築會の副会長。
坂本登:1912年卒。文部技師、朝鮮総督府技師、台湾総督府技師として活動した。時期的に微妙。

台湾研究古書籍資料庫というサイトが有ります。
台湾総督府などに残された統治時代の書籍をpdfにして公開しています。
興味深い資料の宝庫です。
当時の日本や台湾の状況が非常によく分かる資料ばかり。面白いです。

台湾の建築実務者によってつくられた臺灣建築會が、二ヶ月に1度、台湾建築会誌という会報を出しています。


ある回の目次は、、、
卷首
防空に關する講演 門脇幹衞
水平荷重を受くる特殊ラーメンと其解法 田中大作
昭和八年度に臺灣の官廳で施工された建築 阪東一郎
第六囘總會見學會之記
臺建ゴシツプ
編輯室から
建築雜報
會報

となっています。
台建ゴシップというのは、編集部が会員数人をピックアップして、ユーモアたっぷりにいじるコーナーで、その当時の仕事や人間関係などがよくわかります。
日本での事例紹介や、時節柄注目すべき技術情報や、合同見学会のレポート、日本より訪台した文化人による文章など、今読んでも楽しめる内容です。

この会の会長が、総督府営繕課長だった井出薫さん。総督官房営繕課長が、建築職では台湾一のポストと思われます。
台北に現在も残る建築を多数設計していますし、興居台南が建った時期もそれらの仕事をしているので、ちょっとこの方ではないと思われます。

副会長だった栗山俊一さんは、1919年から1931年まで総督府営繕課技師として官職についていましたが、その後民間で活動しているようです。
現存している1928年竣工の台北郵便局(現・台北郵局)や1931年竣工の台北放送局(現・二二八紀念館)を設計したエースだったようです。
又、1935年に発行された、臺湾文化史說という本では、台南の「安平城址と赤嵌樓に就て / 栗山俊一」という文を書いています。
荒れ放題だった、オランダに縁のある古城2つを保存するきっかけとなった行動です。ここでは、台湾総督府技師という肩書ですが。
台北での総督府の仕事の後に、台南でこのビルの設計・監理をしつつ、古城の調査や研究に従事していたということは十分ありえますが、いかがでしょうか。

興居台南

台南の二泊目と三泊目は、宿を変えることにしていました。
正興街から西門のロータリーに徒歩3分くらいの距離。西門路と民権路の交差点から三軒目。
この西門路は、かつて台南市を囲っていた城壁の跡。タモリさんが好きそうな。。。
西門は、その城壁の西門だったのです。
城壁の外から内に引っ越したのです。
気のせいか落ち着いた雰囲気です。

この興居台南は、4階建の日本統治時代1934年竣工の建築をホテルにリノベーションしたもの。
設計者は日本人だったようなのです。
東京帝国大学出身だったそうです。
帝大建築の卒業生リストを調べているのですが、当時台湾にいて、台南にゆかりのある人物はかなり限られています。
当時は、林百貨や、台南駅の竣工が相次いだ時期。
この興居台南となった建築は、林百貨の次に台南で高い建物だったようです。
あいにく、林百貨のある地区と、この建物がある地区は、日本人による開発が進んだ地区だったようで、終戦前の空襲で激しく破壊され、この建物の隣までの建物は倒壊したようです。

この建物が建つ前後は、死者が出るような地震が相次いだ時期だったようで、当時の日本人建築家によるレポートも記録に残っています。
そうした時期に、4階建のRC建築を建た建築主も、建築家もそれなりの人物だったと思います。

1階には、広いロビーとラウンジ。
2〜4階に5〜6室の宿泊室。大きな吹抜に回廊がまわり、その奥にオーナー夫妻のプライベートスペースが有ります。

オーナーは、骨董好きなこともあって、古い建築を本来の魅力を活かす形での修繕を行っています。
古建築の改修の勉強に、京都には3回、欧州の複数の国を廻ったと言っていました。
台南に多くあるリノベーションしたカフェや宿は、基本的には現代の若者風の改装をしているものばかりです。
良く言えばおしゃれ、悪く言えば子供っぽい。
そういう意味では、ここは全体が一つの空間として整っていると思います。

正興珈琲館

初日泊まった宿は、若い人たちに人気の正興街の中心的なカフェ正興珈琲館の経営する三室だけの宿でした。
カフェも宿も、古い建築をうまく改装しています。
妻壁は煉瓦造で、その並行する壁に、丸太をかけて、屋根を構成するのが当時の建築の標準的な工法です。
カフェは、その煉瓦の壁と屋根をうまく見せると同時に、内部の木製建具などをうまく使っています。

宿は、一階に一室。泊まった二階にはロフトがあり、三階と四階が連続した客室になっているようです。
二階には、床をすのことしたバスコニーがあり、半透明の樹脂の腰壁と、三面サッシュ、天井=屋根も樹脂+すだれ。という開放的なつくり。10帖くらいあります。
浴槽と便器が奥にあり、街の景色と向き合う一面にはベンチがつくられていますから、ビールでも飲みながらゆっくりするにはとても気持ちがいい場所となっています。

一階のライブラリーも、気持よくつくられていますが、風通しが悪そうなので真夏は大変な暑さになりそう。
近所に魅力的な店が色いろあるのですが、時間がないのと、お腹が空かないこともあって、行けずに残念。