マゼラン 最初の世界一周航海――ピガフェッタ「最初の世界周航」

[amazon_image id=”4003349415″ link=”true” target=”_blank” size=”medium” ]マゼラン 最初の世界一周航海――ピガフェッタ「最初の世界周航」 (岩波文庫)[/amazon_image]

マゼランの航海は、子供の頃から世界史の授業まで何度も何度も歴史のお話や偉業としては見聞きしてきました。エピソードとしてはわかってたつもりですが、この本は、無事帰国した船員の航海記の翻訳だったので肉声のようなものを期待して
読んでみました。
もともと欧州と、東の国々との貿易は、地中海を経て、中東のイスラムの商人たちを中継したものでした。
イスラムの商人は、今でもそうですがかなりえげつない商売をします。バザールでも平気で10倍にふっかけてくる。
当時の欧州というとユーラシア大陸の辺境で、資源も、公益に有利な生産物もない、戦争が強いだけの貧しい地域でした。
それを造船と航海術で克服したのがポルトガル。

アフリカ大陸の南端を東に廻って、アジアと直接貿易するルートを開拓することで、イスラムの商人を中抜きすることに成功したのでした。アラブ人にぼったくられていた香辛料が、現地では木に生えてるわけですから、ちょっとした珍しい加工物を持っていくと喜んで交換してもらえます。莫大な利益を生んだということは容易に想像できます。
現在で例えると、100円ショップの商品と、籠いっぱいのアワビ(キャビアとか)を交換してもらうという感じだったのでしょうか。

ライバルのスペインは、東はライバルに先んじられたので、西に向かいます。
そこで、地図に載っていなかった北と南のアメリカ大陸を発見することになります。
しかし、アメリカ大陸からは、タバコや赤唐辛子、トマト、砂糖や金は得られますが、香辛料は無い。
そこで、アメリカ大陸を越えようとするわけです。陸路で太平洋の存在はわかっていたので、パナマに海峡はないか探してみたりしますが陸続き。そこで南を廻ろうということでマゼランの航海になります。

南米の最南端は、現在でも超がつく難所で、風と波がすさまじく、かつてここを超えた船乗りは、椅子に座ったときに机の上に足を乗せるのを許されるといわれたほど。
マゼランはホーン岬と南米大陸の間の海峡を発見し、無事太平洋に到着します。栄養失調でバタバタと仲間を失いながら、東南アジアの島々に到着します。

何の予測もしない状況で、大きな船に乗った外国人がやってくる。船に乗った人たちも、島にどんな人がいるかわからずに交流するわけです。
現在では、認識の限界の外にいる人とコミュニケーションする機会は、宇宙人とでも会わない限り無いわけで、その時、どんな感覚だったのか?想像するだけでぞくぞくします。
しかし、慣れというのは怖いもので、慣れてきたときに、現地の小競り合いの片方に加勢してマゼランは死んでしまいます。そのあたりは戦国自衛隊っぽい感じです。実際に、マゼランの船から降りて、島に残った人もいたようです。

マゼランが死んだあとは、病気やポルトガルの意地悪に苦しめられた、敗走する敗残兵のような状況ですが、なんとか無事帰還したところが大きな救いです。
5隻に乗っていた235名が、ビクトリア号で帰還したときには18名。
この時、スペインに「発見」されなかった日本は、いかに幸運だったのか・・・ということはスペインの植民地だった国の現在でもつづく社会の歪みを見ればよくわかります。
商人が作った国であるポルトガルと、国王や貴族の既得権益が強かったスペイン。
世界一周を成し遂げた英雄マゼランの航海は、太平の国々をこの両国がかき乱すことになるさきがけでもあったようです。

短い2月

ふと気づいたら2月は今日でおしまいでした。
やっぱり2月が終わるには早いです。
現在、世界で使われてる暦は、ジュリアス・シーザーとクレオパトラが合体して、太陽暦と太陰暦も合体させて今に至ったようです。
元々は31日の月と30日の月が交互だったようなのですが、、、
シーザーがわしの月を作れと言って7月(July)に割り込んできた。
その後、アウグストゥスが8月(August)に割り込んできた。いづれも31日にして、2月から日にちを取ってきたので、元々30日だった2月が28日になってしまったとか。8の月(October)が押し出されて10月に。
早く春がきて欲しいので、2月が短いのは大歓迎なのですが。

忍者と八百長

相撲と八百長の報道も、少し落ち着いてきたようです。
相撲がそれほど好きじゃない人ほどヒートアップしてるようですが、こういう問題は、そのジャンルを愛してる人たちが、決着を付けるべき問題だと思います。
八百長が悪なら、日本で行われてる膨大な会議はみんな悪になります。
最初から結論が決まってるのだから・・・

このニュースを見たときに、真っ先に思い浮かんだのは、伊賀や甲賀の忍者達でした。
戦国時代から続いた戦乱が収まった最後の戦いは、天草・島原の乱です。
その後、長い太平の世が続きます。
最後の戦争なので、参加した幕府方の武士たちは相当張り切ったそうです。
戦場での働きが、末代までの待遇を決める訳ですから。
現代の資格試験や、社内の昇級試験のようなレベルとは比べものにならないほどの切迫したものがあったそうです。
自分が死んでも、手柄だけは、誰かに見てもらって報告してほしい・・・ということ。

このときは、甲賀の忍者たちがかなり張り切って参加していますが、怪我をしたという程度の記録にとどまっていて、手柄は特になかったようです。
相手方が、農民やキリシタンで、忍者を雇っていなかったから・・・だそうです。
それまでの戦では、相手方にも忍者がいました。それで、双方にわかる目印で、夜中に会って、双方が知ってる情報を交換して、お互い手柄にする・・・ということをしていたそうです。
相手方に、忍者がいないと、手柄も無い。
ということのようです。

現代でも、政界やビジネスの世界で、いかがわしいけど情報通という人がいて、情報を渡すと、情報をくれるという感じの人がいます。そんな感じの役どころだったのでしょう。

チュニジアーデンマークー村上水軍

人間の感覚というのは不思議なもので、これまで何度となく地中海の地図や航空写真を見てるはずなのに、地中海北岸の地形は頭に入っていたのに、南岸つまりアフリカ側の海岸線の地形や形状は頭に入っていなかった。
イタリアの長靴の先と、チュニジアが思ってたより近いし、シチリア島も、もっと西側にあるかと思っていました。
チュニジアといえば、ジネディーヌジダンの親の出身地としても有名ですが、ユーロ高だったときに、安いオイルサーディンやパスタの輸入元としてもなじみがある土地です。
しかし、地形をみると、何かに似ています。
まず思い浮かんだのはデンマーク。

デンマークは、小さなバイキングビッケでも有名ですが、居直り海賊の名所です。スウェーデンのバイキングが、殺しや略奪の非道の限りを尽くして持ち帰った略奪品を、デンマークの多島海を通って本国に帰る途中、待ち構えていたデンマークの人に補足されます。
デンマークの人は、血も涙もないので、半分置いていけと命じます。
世界を恐怖に陥れたバイキングも、単に待ち構えているだけのデンマーク人にはかなわないので、半分置いていったようです。

日本では、瀬戸内海の大三島周辺海域。いわゆる村上水軍が支配していた地域です。村上水軍は、1割置いていけと言います。
そのかわり、潮流の激しい瀬戸内の水先案内もしますし、ほかの海賊から守ってくれます。

チュニジアは、地中海の中央を遮断しうる場所に立地しています。
東にはイスラム諸国、北にはイタリアの海洋都市、西にはスペインなど。
目の前を富を満載した船が行き来します。
地中海南岸つまりアフリカ北岸は、中東からモロッコやスペインに至る地域をつなぐイスラムの重要な回廊でした。
目の前を異教徒が通るのを素通りさせてたわけではなかったようです。
チュニジア海賊は、風が弱い日に立ち往生してる貿易船を、大勢の奴隷に漕がせるガレー船で強襲します。
財産はすべて没収し、捕虜の身代金を要求する手紙を実家に送らせて、届かなければ奴隷市場で売られます。男はガレー船の漕ぎ手だったようです。
そう考えると、村上水軍の誠実な姿勢は、海賊というよりも、質の高い行政とでもいうべき状況だったと言えると思います。

アフリカ北岸つまり地中海南岸が、いろいろもめてるようですが、歴史的なからみがない日本にいると、本質的な部分での問題点はわからないままな気がします。