中世の港と海賊

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瀬戸内の原風景をはっきりとイメージさせる書物はなかなか残っていないようです。
水軍や海賊の伝承はそれとなく残っていますが、薄いもやがかかった状況です。
この本は、中世に瀬戸内海西部のいくつかの島を拠点にした港や海賊衆の記録をたどっているものです。具体的で非常に面白かったです。

最初は、蒲刈に拠点を置いていた多賀谷氏。
中世の旅行記にもいくつも出てくる海賊です。本土の広に多賀谷町という地名が残っています。
この多賀谷氏は、もともと伊予の国の西条荘の地頭だったとか。東西の大きな勢力のごたごたで居づらくなって、蒲刈に移住し、海賊となったようです。
ちなみに伊予西条といえば、壮大な山車が集まる祭りで有名な町。ヤンキー度が高そうな町のイメージはありました。長友佑都や眞鍋かをりも西条出身です。
もともとは埼玉の多賀谷の武士だったのですが、鎌倉幕府ができて、西国の荘園の地頭としてやってきた典型的なパターンです。
面白いことに、他の島々の海賊衆も伊予の国から島に移って海賊になったケースが多いということ。安芸の国をルーツとする海賊は、竹原や三原の小早川程度かもしれません。

陸で武力を持って荘園経営をしていた武士が、川も水田も平地も無い島に移り住んでも、麦や魚しかとれません。目の前を富を満載した船が行き来するわけですから、その一部を頂くというのも当時としては当然の発想だったのでしょう。
陸路でも、主要な峠に勝手に関所をつくって通行料をとっていましたので、罪悪感はなかったのかもしれません。

その後多賀谷氏は毛利家について他の領地をもらい、地元に残った一族が広村に移って多賀谷町として地名に残った・・・ということのようです。
僕の出身地の川尻町に、光明寺という真宗の大きなお寺があります。実家の近くで、妹が日曜学校でお世話になっていました。
この光明寺は、多賀谷氏と一緒に移ってきたお寺で、蒲刈の後背地である川尻に寺を築いて今に至ってるようです。
伊予西条は四国八十八ヶ所の霊山石鎚山のお膝元。川尻は空海ゆかりの野呂山のお膝元。
呉の多賀谷町は猛烈な空気汚染で有名な王子製紙の工場のある工業地域で、伊予西条も工業地域。海を挟んだ南北で、多少の共通した特徴はありますね。

鎌倉幕府ができたということは、強烈な政権交代があったということです。
それまでの西国にあった荘園は、寺や神社、京の公家の持ち物でした。
そうした荘園に東国の武士を地頭として片っ端から送り込んでいたわけです。
今で言うと、対抗勢力を支持した企業に、自分の支持者の総会屋を総務部長として片っ端から送り込むということです。
その後、南北朝時代、戦国時代を経て江戸時代に至りますが、西国で政治的、軍事的な支配層となるのは、東国からやってきた武士層ですので、それ以前の西国の人たちはどこ行ったんだろう?と言う感じです。