小豆島クルージング

お盆休みに、友人のヨットで小豆島までクルージングに行って来ました。
往きは夕方6時半に出発し、夜間航海で約16時間で小豆島に到着。
小豆島ではレンタカーを借りて島を思いっきり廻ってみました。
池田港から土庄を皮切りに、時計回りに島を一周。
翌日も午前中に山の中の農村めぐり。
津々浦々という言葉の通り、大きな島にたくさんの魅力的な風景や集落がありました。
割烹料理屋が多い土庄や、醤油屋や二十四の瞳で有名な草壁は観光地として開発されていますが、島の北側は人の手の入っていないビーチや絶壁もあり、ゆっくりテントでも持って過ごしてみたい魅力を感じました。
地元オリーブ100%のオリーブオイルを探してみたのですが見つからず。小洒落たオリーブグッズの店は幾つかできていましたが、スペイン産を使ってるようで、生産量と観光的消費量のバランスが悪いのか?コストの問題なのか?
人件費の高い日本でスペインやギリシャと勝負するのはやはり無理なのか?色々考えさせられました。
山村は美しく維持されています。村歌舞伎の舞台も二棟綺麗に残っています。

その日のうちに瀬戸大橋の足元の与島に移動一泊。停泊料500円。
フィッシャーマンズワーフは廃墟化。泡盛飲み過ぎてダウン。深夜に雷豪雨。

4時発で尾道へ。
泡盛の余韻が払拭された午後に、銭湯&街歩き。
来るたびに観光の魅力が増してる街となっています。

翌日4時発で広島へ。

フランス製の素晴らしいヨットと仲間と素晴らしい時間を過ごせました。
地中海とバカンスの風習が、こうした魅力的な休暇をすごすことができる道具を生み出すということを実感。
元々盆と正月しか休まなかった日本人は真似することが難しいと思いますが、心意気は学ぶことができます。
地中海に負けないクルージングポイントである瀬戸内海は、数々の魅力はあれど、それを活かす環境整備が乏しいと思います。
港では多くのヨットと出会いましたが、女性が載ってる船は2艇のみ。お金持ちの愛人風とアグレッシブな西洋人女性だけ。
海からアクセスできて、女性が楽しめるクオリティのレストランや温泉ができてくると、家族や普通のカップルの利用も増えてくると思うのですが。

道はアスファルト道路のみにあらず。
原点である海の道から大地を眺めることで、文化の質は確実にアップすると思います。

平清盛

いよいよ明日から大河ドラマ「平清盛」が始まります。
厳島神社や音戸の瀬戸、瀬戸内の島々にも何かと縁があるので、かなり楽しみにしています。
「ちりとてちん」の脚本家が脚本を書いたようですので、安心はできますが、ここのところの大河は、原作なしでいきなり脚本家が脚本を書くケースは、ハズレが多いのでちょっと心配しています。

唐の時代は朝廷同士の貿易が中心でしたが、大陸では唐が倒れたのちに宋が成立し、特に南部沿岸地方の民間商人が貿易に乗り出した時代。
その経済力を取り込んで国を改革しようとした平清盛のスケールの大きさをいかに描くのか?期待したいです。
特に、近年もグローバルな経済の動きに対して、乗っかるのか?それとも否定して閉ざすのか?議論が激しく起こってる状況ですので、興味深い視点が提示されてたら面白いと思います。

しかし平清盛といえば、日本の歴史上、悪玉として位置づけられています。
巨大な政争に負けた側のトップなので仕方が無いのですが、、、
同じような立場に、蘇我入鹿がいます。
日本史の授業では、中大兄皇子達に暗殺された悪玉という扱いですが、実は大化の改新と言われた数々の改革の多くは蘇我氏が着手していたという説もあります。
蘇我氏を倒した中大兄皇子は、滅亡した百済救済に大軍を出兵し、惨敗した後に天智天皇となって近江に都を遷都します。
この子孫が桓武天皇となって京に遷都するのですが、、、この桓武天皇が桓武平氏のルーツとなりますから、平清盛の先祖。因縁ある関係と言えます。

西の悪玉が平清盛なら、東の悪玉は平将門。こちらも同じく桓武平氏です。
国を新しくしようとして、力尽きた英雄が悪玉として今も土地に伝説を残している。
関東も平将門なくしては語れない歴史の重さがあると思います。
大河ドラマは、一年かけて歴史と文化の蓄積を感じるご当地イベントですから、毛利元就以来の広島が舞台なのでしっかり広島や瀬戸内海の歴史や文化を楽しむ2012年としたい。

中世の港と海賊

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瀬戸内の原風景をはっきりとイメージさせる書物はなかなか残っていないようです。
水軍や海賊の伝承はそれとなく残っていますが、薄いもやがかかった状況です。
この本は、中世に瀬戸内海西部のいくつかの島を拠点にした港や海賊衆の記録をたどっているものです。具体的で非常に面白かったです。

最初は、蒲刈に拠点を置いていた多賀谷氏。
中世の旅行記にもいくつも出てくる海賊です。本土の広に多賀谷町という地名が残っています。
この多賀谷氏は、もともと伊予の国の西条荘の地頭だったとか。東西の大きな勢力のごたごたで居づらくなって、蒲刈に移住し、海賊となったようです。
ちなみに伊予西条といえば、壮大な山車が集まる祭りで有名な町。ヤンキー度が高そうな町のイメージはありました。長友佑都や眞鍋かをりも西条出身です。
もともとは埼玉の多賀谷の武士だったのですが、鎌倉幕府ができて、西国の荘園の地頭としてやってきた典型的なパターンです。
面白いことに、他の島々の海賊衆も伊予の国から島に移って海賊になったケースが多いということ。安芸の国をルーツとする海賊は、竹原や三原の小早川程度かもしれません。

陸で武力を持って荘園経営をしていた武士が、川も水田も平地も無い島に移り住んでも、麦や魚しかとれません。目の前を富を満載した船が行き来するわけですから、その一部を頂くというのも当時としては当然の発想だったのでしょう。
陸路でも、主要な峠に勝手に関所をつくって通行料をとっていましたので、罪悪感はなかったのかもしれません。

その後多賀谷氏は毛利家について他の領地をもらい、地元に残った一族が広村に移って多賀谷町として地名に残った・・・ということのようです。
僕の出身地の川尻町に、光明寺という真宗の大きなお寺があります。実家の近くで、妹が日曜学校でお世話になっていました。
この光明寺は、多賀谷氏と一緒に移ってきたお寺で、蒲刈の後背地である川尻に寺を築いて今に至ってるようです。
伊予西条は四国八十八ヶ所の霊山石鎚山のお膝元。川尻は空海ゆかりの野呂山のお膝元。
呉の多賀谷町は猛烈な空気汚染で有名な王子製紙の工場のある工業地域で、伊予西条も工業地域。海を挟んだ南北で、多少の共通した特徴はありますね。

鎌倉幕府ができたということは、強烈な政権交代があったということです。
それまでの西国にあった荘園は、寺や神社、京の公家の持ち物でした。
そうした荘園に東国の武士を地頭として片っ端から送り込んでいたわけです。
今で言うと、対抗勢力を支持した企業に、自分の支持者の総会屋を総務部長として片っ端から送り込むということです。
その後、南北朝時代、戦国時代を経て江戸時代に至りますが、西国で政治的、軍事的な支配層となるのは、東国からやってきた武士層ですので、それ以前の西国の人たちはどこ行ったんだろう?と言う感じです。