街のはずれをとろとろと流れていく、あさくら川の土手に沿って、新しい白い家がぽつぽつと建ち並ぶ。きれいに草を刈ってアスファルトで覆い、若い家族のための清潔そうな家が次々に建てられ、このあたりはやがて新しい住宅街になる。
未だ時代に取り残されるようにして、本来の土手の姿である草がぼうぼうと生い繁り木立が深くなるあたり、くすんだ色のかたまりが見える。歳月がまとわりつき、はっきりとした輪郭が崩れ、あたりの草木と混じり合ったような人間の古巣。
その家は、二世帯が一つ屋根の下に収まる平屋の賃貸住宅である。別々の玄関から上がり、壁一枚の隣合わせに別々の生活が営まれる家。その一角は同じ様式の平屋がいくつかならび、ひと続きの長屋所帯のようで、あたりの小市民マイホーム型住宅街に向けて異質な匂いを発している。人間の営みの匂いがその小さな家からはみ出してきてしまうのだ。生活とは、きっとこういう濃い匂いのことに違いない。
陽がのぼると同時に床から起きあがり、窓から朝の光を取り込む老婆が住み、郵便受けからかたんと新聞を引き抜く会社員が住み、弁当の支度に朝から揚げ物をする主婦が住み、自転車をがたがたさせて急ぐ女子高生が住む。
夕暮れには、建物の小さな隙間を子どもたちが走り回り、夕食の支度前の母達が井戸端で話し込み(事実、井戸は存在している)、そして風呂や、夕食や、父の帰宅の後、静かな夜がここを訪れる。
独身時代のKは、この長屋街に夜の間だけ静かに潜む小さな生きもののようにして暮らしていた。Kに連れられて、初めて上がり込んだこの場所は、地味な観光地の小さな旅館の一部屋のようだった。机と冷蔵庫が住人を待ち、あとは衣類と本だけの生活。手持ちの物とがらんとした空間が、よそよそしく共存している。この部屋に何日も滞在しているらしき埃が鼻先をかすめ、テレビや家具やガステーブルや電話のない、生活でもなく旅先でもない、どこでもないここで、私たちはぺったりと座っていた。小さな声で、眠っている濃密な長屋の生活を起こさないよう小さな声で、ずっと喋り続けていた。
冷え冷えとした畳の上に座って、その秋、もしここで生活を始めるのなら、先ず買わねばならない物は石油ファンヒーターだと、わたしは主張した。