外へ出かけるためには、この長屋街の大通りを突破しなくてはならない。この大通りは、鉢植えの花がはみ出し、洗濯機がはみ出し、子供の足こぎ車がはみ出し、乳母車に乗った赤ん坊がはみ出し、しゃがみ込むばあちゃんがはみ出している。ただでさえ狭い大通りが、両側からの陣地争いにされるがままなのである。
玄関を出て、この通りをひょいとのぞき込む。誰もいない。せんたくものが風に吹かれ、家の中からテレビの音がする。静かだけれど、これは誰もいない静けさではない。朝の一騒動を終えて、もうお昼寝時間になったのだろうか。
がさがさとごみを持って通る。買い物袋を抱えて通る。身なりを整えて出勤する。時間帯がずれているので、いつも静かで、ほとんど住人には会わない。いや、会うのもなんだか気後れしてしまうのだ。こんなに堂々と住み手の状況を披露されては、もはやその道は公道ではなく人の家の庭先のようなものだ。そこを横切るこちらの方が、恐縮してしまう。どうも足どりがこそこそしてしまう。新参者は、気弱になりがちだ。
おはようございますとあいさつしても、その後が続かない。忘れ物を取りに戻って、都合三回も頭を下げるのは、さすがに間が悪い。そんなことで、ついつい外出するのが億劫になる。
ある日、住人のおばさん二人が、何やら家の玄関前で話をしている。そこには、ある住人が茄子を植えた発泡スチロールの植木鉢を置いていた。ところがそれを、うちの向かいに住む女の子が車を動かす際、ひいてしまったらしいのだ。しかしもともとその場所は、茄子の人の所有の場所ではない。誰が悪いのか。
大きな声なので全部聞こえてくるのだが、わたしには話す術も出る幕もない。家の玄関の横のことなので、その茄子はわたしも知っている。茄子は知っていても、その背後にからみつく住人人間模様まで覗く気力はなく、そのまま家の中で黙ってじっと聞いていた。
こうしてはみ出したものたちの摩擦で、近所付き合いは育まれていくのに違いない。家に閉じこもったままじっと外を伺っているのでは、近所はいつまでも形成されない。ああ近所はまだ遠い。
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